24 今夜だけのお願い
「今、なんて言ったの?」
「今夜、お時間ありますかって・・・」
驚いたように身を引いた主任に、やっぱりそうだよなぁ、とがっくりと肩を落とした。やっぱりいきなりじゃあ、無理だよなぁ。
そう一人ごちて「あ、すいませんなんでもないです」と立ち去ろうとした僕に、
「いったい何の用事?」
ときわめてビジネスライクに訊いてきた。
「・・・あ」
そういえば、用件を言ってなかった。
「なに、仕事のこと?昨日の春の新作の件なら、次の金曜日までに改めてラフを作るって話になったじゃない」
きゅっと見返してくる目元がなんだかすごく挑戦的で、僕はますます無理だよ、と諦めかけた。
涼子さんに「すんごい美人の彼女がいる」と言った時、真っ先に頭に浮かんだのは他の誰でもないこの梶原主任だった。それでも連れてらっしゃいと言われて一時しのぎでいいのなら、本当言うと美奈ちゃんに頼んだほうが楽かもしれないと思った。きちんと事情を説明して、今夜1日だけ彼女の振りしてくれる?そういって誘っても美奈ちゃんだったら大笑いはされるだろうけれどすんなりOKしてくれるだろう、そう確信していた。
でも。
彼女なんだ。
ほんの一時、たった一晩偽者の彼女になってもらうというのなら、主任にダメモトでお願いしたっていいじゃないか。
それが最初で最後でも、僕の彼女ですって人に紹介できるんだから。
レストランから帰ってくる道すがら、そう心に湧き上がった感情は今ここで主任と向き合うまでは絶好調に達していたんだけれど。
ビジネスライクな口調に圧されて、僕の勢いは一気にしゅんとしぼんでしまった。
「・・・日浦」
がくっと俯いた僕のことをどう思ったのか、主任は心配げに僕の顔を覗き込んだ。
「何よ、何か失敗でもした?」
取引先のある問題なら早めに対処しないといけないんだから、落ち込んでるヒマなんてないのよ。
きびきびと言ってくるのに頭を横に振って、
「なんでもないです」
と言って自分のデスクに戻ろうとした。
「ちょっと、なんでもないじゃないでしょ」
すっと立ち上がると主任は僕の腕を取ってぐいっと引っ張った。え、っと思って顔を上げると、そのまま企画室を出て行く。
「あ、あの」
「ここじゃ話せないんじゃないの?ラウンジで聞くわ」
「えっ」
ラウンジ。
その単語に過剰に反応する自分が情けない。
主任は昨日の事なんかなんとも思ってないんだろう、荒木氏が抱擁していたその場所で僕の話を聞くって平気で言って、僕がそれに戸惑うなんてことはこれっぽっちも考えていないんだろう。
嫌なんだけど、すごく嫌なんだけど、とっても嫌なんだけど。
うじうじと考えたまま引っ張られてエレベーターホールへと続くフロアへ出て、ここを左に行くとラウンジだと気がついたところで僕はいきなり立ち止まった。
「なに?」
急に動かなくなった僕を、訝しげに主任が見る。
どうせ断られるって覚悟したんじゃないか、だったらきっちり言ってしまえ。
言わないで諦めるなんて、男らしくないぞ。
僕の中の日浦章吾にそう言い放って、ぎゅっと目をつぶって「よしっ」と小さく気合を入れた。
「主任」
「・・・なに?」
正面に向かい合って、目を見て一気に言ってしまった。
「今日だけ、僕の彼女になってもらえませんか」
「いいわよ」
どれくらい経ったのか、ほんの3秒か4秒か、そんな短い時間だったのかもしれないけれど僕には永遠の時間のように思えた一瞬後、がばっと下げた頭の上であっさりと主任の声がした。
「え、・・・と」
「いいわよ、別に」
顔を上げた僕の前で、ゆっくりと腕を組んで主任が言う。
「ところで、今日だけってどういうことよ」
ううう、そうでした。
用件も説明も全部すっ飛ばしてる僕は、結局ラウンジでしどろもどろの話をすることになった。