10 梶原理沙子のユウウツ<1>
手に残されたのは、中身を綺麗に掬われた淡いブルーのマグカップ。
よほどお腹がすいていたのかとも思ったけれど、そうじゃなくてもあのくらいの時は誰だってガツガツ食べるわよね、とその様子を思い出してクスリと笑った。
甘いジャムは嫌いだろうかと内心心配しながら差し出したトーストは、ひどく気に入った感じですぐに食べ終わってしまった。その様を見てこっちはお腹が一杯になっただなんて、きっと思いもしないんだろう。
『ごちそうさまでした』
ペコリと音がするように頭を下げると、日浦はなぜか照れたように笑って帰っていった。こっちを振り返りもしないで、朝早くここを出て行く彼を見送っっている私が何を考えていたかなんて、この先ずっと解りはしないだろう。
「あーあ」
私は馬鹿だな。
強がるのもいい加減にしろ、ときっと言われるわよね。和孝には。
昨日の打ち上げは企画室の全員が参加したのは1次会だけで、2次会まで流れたのは私と小原部長、佐々木さんと米山君、それと美奈ちゃんと日浦の6人だった。普段は『飲み会』自体に参加したがらない日浦が居たことに私は驚いて、同時に嬉しいという思いを抑えることが出来なかった。
そう、嬉しかった。
それがそのまま行動に出た。
お酒には強いという自信はあったけれど、それでも昨夜は羽目を外しすぎたとは自覚している。そうじゃなかったら、日浦を強引に部屋まで引っ張ってきて、泊まっていけだなんて言えるわけがない。
ふう、と息をついて手元のカップに目を落とした。
何を期待して、だなんてのはそのときはさっぱり頭になかったけれど、ただ一緒に居たいという思いだけは強かった。
好きだから。私は日浦が好きだから、一緒にいたいという自分の気持に酔いが拍車をかけたのだ。
でもそれも、私だけの独りよがりだ。
そう自分に言い聞かせて、ついさっきの出来事を思い出した。
朝起きたら目の前に日浦が居たのには心臓が飛び出るほど驚いたけれど、日浦の色気もそっけもない態度がいつも仕事で接している時となんら変わりがなくて、私は自分自身にがっかりしていた。
それでもと思って「なんにもなかったよね」と訊いてみれば「当たり前です」と平然と返されて、ああもう決定的、と納得するしかなかった。
なんとも思ってないわけだ、日浦は、私のことなんか。
ホントばっかみたい、私ってば。しかも最後の最後まで、年上の振りして格好つけてさ。
あーあ、馬鹿みたい、と何度目かの馬鹿を呟いてから、初めて使ったペアのマグカップを、キッチンのシンクにとんと置いた。
そこでやっと思い立って、テーブルに置きっぱなしだった携帯電話の履歴を開いた。和孝が朝っぱらから遠慮無しにかけてきたということは、きっとまた何か揉め事でもあったんだろう、そう思うと無性に腹が立ってきた。
いい加減にするのはそっちよね、いちいち私に連絡してくるなって言うのよ。
声に出さずに毒づきながら、履歴の一番最初をプチンと押した。
『理紗子っ遅いじゃないかっ』
ワンコールもしないうちに、キンキンとした声が響いてくる。
「遅いって、何?何かあったの」
内心は「またかよ」と思いながら事情を聞いてみる。すると案の定、和孝はいつもの通りのことを言ってきた。
『祐志、そっちに行ってない?昨日から居ないんだよ』
「・・・和孝、これで今月何度目よ」
そこでうっと詰まった声がしたことはしたけれど、この男のことだ、これくらいで落ち込んだりするわけがない。
『あー、4度目くらいかな』
ハハハ、と笑う声にはまったく悪気はなかった。能天気なことこの上ないな。
祐志は私の双子の弟で、フルネームは荒木祐志、中学生の時に両親が離婚して別々に引き取られたから名字が私とは違っている。でも姉弟の繋がりはそんなもので離れるわけがなくて、高校・大学と一緒のところを選んできた。そうして大学の時に、この和孝と出会うわけだが。
私にとってただの先輩でしかない『中山和孝』は、祐志にとっては運命の相手だったのだ。
「それで足りたかしら」
祐志だって喧嘩をするたびに私のところにやってきていたんじゃ、すぐに和孝に掴まるとわかっているんだもの、よほどの馬鹿じゃないとそんなワンパターンなことをするわけがないじゃない。なのにこの男は必ずここにいる決め付ける。で、居ないとなると次の台詞もわかっている。
『どこに行ったか知ってるだろ?理沙子なら』
「・・・知るわけないじゃないの」
『嘘だろ、昨日の晩は祐志が出てってから君のところに何度も電話したんだ、だけどちっとも出ないから、絶対に一緒に居ると思って・・・』
威勢のいいのが次第に小声になってくる。ふん、いい気味だわ、と声には出さずに毒づいた。
私がわざと祐志のことを匿って電話に出なかったとでも言いたいのか、この馬鹿男は。
「いくら双子だからって、何でも知ってるわけじゃないわ。それに昨日は企画室のみんなと一緒に飲みに出てたの、電話なんて気がつかなかったわよ」
『企画室のメンバーで、って・・・日浦ってヤツも行ったのか』
日浦ってヤツ、というところでそれまでの調子とガラリと変わって、ぐんと低くなった。気にしているとか心配になったとかそういうのじゃないと思うけれど、露骨といったら露骨過ぎるのに苦笑して、あっさり「そうよ」と言ってやった。
そこで和孝は、今日初めてと言っていいほど緊張した声で『それで?』と訊いてきた。
「それでって、別に何にも無いって。ただみんなで気持ちよーく2次会に行って、いつもの通り気持ちよーく帰ってきて」
あっけらかんと続ければよかったのに、そこで私の声は止まってしまった。電話の向こうでじっと私の言葉を待っているのはわかったけれど、私はなかなか次の言葉を言い出せずにいた。部屋に帰ってきてそれで終わり、いつものことよ、と言えばそれで済んだのに。
和孝と祐志は私の気持ちを知っている。日浦のことを想っているって、知っている。それがもしかしたら、甘えに出たのかもしれない。
「ねぇ、和孝」
『・・・なんだ』
「私って、女の魅力無いのかなぁ」
口に出してしまってから、ああ馬鹿な事を言った、と私は思った。