第九話 薬師 識
十五時。八ツ時、つまりはおやつの時間。
巡さん、お涼さん、そして僕は、縁側でお茶をしていた。
お茶請けはキウイフルーツのゼリー。緑茶とは合わないだろうに。
だが、これがまた美味い。合わないけど。訊けばお涼さんの新メニューだそうだ。
巡さんはもう食べ終わっている。気に入ったのだろう。
「九十九君。白澤って、知ってる?」
唐突に巡さんが言った。
視線は明後日の方向。
「何です? その……」
「白澤。中国に伝わる、神獣よ。牛と獅子を掛け合わせたような胴体に、顎鬚を蓄えた虎と人を掛け合わせたような顔、顔に三つ、胴体に六つの目と、額に二本、胴体に四本の角を持った姿でよく描かれる。白澤はとても聡明で森羅万象に通じ、薬や鬼神の知識を豊富に持っていると伝われているわ」
「で、それがどうしたって言うんですか?」
「この町でかなりの目撃情報が挙がったのよ」
「……え!?」
実在するのそれ。
ああ、妖として、か。それなら納得できる。
「多分九十九君の考えはハズレよ」
「……!?」
「白澤は、白澤として、この世に実在しているのよ」
巡さんはお茶を啜る。
「つ、つまりそれは!?」
「哺乳類、爬虫類、鳥類、両生類、魚類、その他もろもろ、その種以外に、“白澤”は存在しているの。妖のような不定形で不確かであやふやな何かでは無いのよ。白澤は白澤という唯一無二の存在で、今現在も、存在している。動物でも、生き物でも無い、白澤という、存在として」
「白澤という存在……」
本当に、いるのか。
本当に。この世に。白澤は。
「ま、それはまた後でお勉強することにして。お涼、お茶とゼリーおかわり」
話を逸らす。
「はい、諒解したのです。すぐに持ってくるのですよ」
お涼さんは台所へと忙しく歩いていった。
ふと。
「九十九君。貴方、何か私に報告する事があるんじゃないの?」
僕を見ず、巡さんはそう言った。
何もかもお見通し、というわけでは無いだろうが、僕が隠し事を(ただ言い忘れたのだが)していることは分かっているようだ。
「そ、それは」
「病院? 住宅街? いや、川……利根川で、遭ったわね?」
見事に、見抜かれる。最初から知っていたかのように。やはりお見通しなのか。
よくよく考えれば、あの時の行き先を巡さんは知っていたから、推測なのだろうけど。
「ねえ九十九君。貴方は一体何を見た?」
口篭る。いや、絶対的に言うべきなのだけれども。
「……じゃあ、何に遭ったかは訊かないわ。でも、その時の状況だけでも教えて。例えばそこに人が何人居ただとか」
「……人?」
僕はある事に気づく。思い出す。
あのとき、人がいたはずだ。
そりゃそうだ。いくら年末とは言ったって、人通りが無くなるような道ではない。
なら、なぜ。
なぜ誰も、あの化け物を見ていないんだ!?
見ていなかったわけではないのだろうか。いや、でも、普通一般、アレを見て、平常でいれるのは、巡さん達のような専門家だけだろう。
だのに。
ニュースになるくらいの事だと言うのに。なんで。
「なんで誰も、誰もあの牛のような鬼のようなあの異形を見ていないんだ!?」
つい、口に出していたようだ。
巡さんは、一瞬驚きの表情をしたものの、すぐに真顔に戻る。
「ふむ。牛のようで、鬼のような、妖か。それも、九十九君以外誰も見ていないのね……ふふ、良くぞ言ってくれた。よしよし、偉い偉い」
まるで小さい子どもを褒めるかのように僕の頭を撫でる巡さん。僕はその手を直ぐに払い除ける。
「頭を撫でないで下さい。僕は十四歳です」
「なに、いいじゃないの。反抗期はまだ来なくていいわ……でも、今の九十九君の決心はきっと沢山の人を救う事になるわ」
考えてることを呟いちゃっただけではあったが。
「お涼!! 一寸来なさい!!」
大声でお涼さんを呼ぶ。
「ふふぇ!? あわわわすみませーん!!」
大慌てで走ってくるお涼さん。勢い余って転ぶ。
にしたって、何を慌てていたのだろう。
「大丈夫?」
「あ、はいです。で、何ですか? お茶とゼリーは……あ、忘れてた」
数分前に取りに行って、すっかりそのまま忘れていたらしい。
「……ああ、もうそれはいいわ。それよりも、和泉に伝えておいて貰いたい事が―――」
二人は奥で何やら重要な話をしているらしい。
僕は見習い。一応見習いなのだから、一寸くらい、入れてもらいたい。
「―――じゃあ、頼んだわよ」
「諒解なのです。で、肇くんはどうします?」
「九十九君は……九十九君、貴方は自宅待機してて。明日は部活無いでしょ?」
「あ、はい」
待機、ですか。不満は無い。だって見習いですから。
巡さんに訊いた話では、見習いは基本、妖と対峙してはならないらしい。あくまでも自分よりも上位の人間に頼り、そのサポートに専念すること。ここで言う上位というのは、経験が、だそうだ。
見習い期間は人によってバラバラで、短くて一、二ヶ月。長くて一年だそうだ。意外と短い。
妖、という区分については、後々述べると思う。誰に話してるんだろうか、僕。あ、読んでる人達か。
まあ、そんなこんなで見習いの僕は、自宅待機。巡さんは何やら調べもので忙しくなるらしく、逐次連絡を入れるから、らしい。連絡は、携帯電話では駄目とも言っていた。だから家に居ろと。巡さんが携帯電話を所持していない事にも、何らかの職業上の理由があるのだろう。
因みに、お涼さんも自宅で待機。というかいつも通りだそうだ。
僕は、こうして見習いで初仕事、自宅待機を始めた。
まあ、家でのんびりしてても良いとの事だったので、お涼さんの手伝いをしながらのんびりとやっていて、一日を終えた。夕飯は、カレーライスであった。
十二月三十一日。今年最後の日、大晦日である。
僕は再び自転車を走らせている。理由は単純明快、買い物だ。
家にはお涼さんが居るし、大丈夫だろうと、お涼さんに頼まれた。
僕が来る前は、下手に動けなかったらしい。
とりあえず、いつものスーパーで買い物を済ます。と、いうか昨日も買い物したよな、お涼さんに頼まれて。あれ?
と言うのも、昨日はゼリーの材料(ゼラチンが切れていたとか)で、今日は普通に買い物だそうだ。昨日のうちに全部済ませておけば良かったというのに。
まあつべこべ言っていてもしょうがない、という事で、僕は買い物に来ていた。というかもう済ませたのだが。
その帰りに、僕は、やはり第三公園に来ていた。
そしてやっぱり、昨日のように、小さな子達が一箇所に集まり、青年が読む話を聞いていた。
僕は昨日と同じように、遠くのベンチに座り、双眼鏡をバッグから取り出す。
レンズを覗く。
青年は、グレーのパーカーと青の一般的? ジーパン、スニーカーという、まあ言い表すならば、普通、な格好であった。
その普通の青年が読んでいる、読み聞かせている本に目を向ける。
題名は……『竹取物語』か。今は昔、竹取の翁といふ者ありけり―――。で入るのか……。
小さい子はそれで果たして楽しいのか。
むかしむかし―――。で入ったほうがいいんじゃあないのか。
まあ、いっか。
僕は双眼鏡をバッグにしまい、帰ろうと自転車を置いた場所に向かう。
何分小さい公園で、駐輪場なんてものは無い。
自転車のキーを外し、サドルに跨ろうとした時、後ろから声を掛けられた。
さっき読み聞かせをしていた青年だった。
双眼鏡で見てたのがバレたか。というか僕は何で見てたんだよ。
「やぁ、こんにちハ」
「……どうも」
「ボクぁね、薬師 識っていうの。君は?」
強引に自己紹介してきた、えと、薬師さん。
まあ、自己紹介されたからには、こっちがしない訳にもいかないので。
「僕は九十九 肇といいますが……」
「ほぅ、九十九神クんか。それは何とも馬鹿げタ名前だ」
「九十九 肇です」
「おお、これは失敬失敬、九十九神クん。にしタってぇね、99と1なんて、随分な言葉遊びだねぃ。ま、何だか君とハ馬が合いそうだからさぁ、今後ともよろしク」
薬師さんはカラカラと笑う。何ともふざけた人だ。いや、不審な人だ。見た目は印象に残るか残らないか程度の感じなのに。中身が。
そして僕は絶対に、この人とは馬が合いそうに無いと思う。
「だってぇ、九十九神クん、ずうっとボク達を見ていタじゃんか。てっきり、その手の変態かと思って」
「貴方がその手の変態だということは理解しました」
「んぇ? 何言ってるのさ、ボクは別に、七歳以下の幼女にしか興奮しないとか、そんなんじゃないって」
はっきり言って、嘘にしか聞こえない。
「だってボク、二十歳ぴっタしの女性にしか、ときめかないし」
「好みが異様にマニアック過ぎだ!!」
規格外のマニアックさだ!!
「だからさあ、交際してても彼女の次の誕生日には、もう別れちゃうんだよね。本当に、参るよ全く」
やれやれ、という感じで首を振る薬師さん。
参るよ全く、と思っているのは絶対に相手側の女性だと思うが。
「……で、その、薬師さんはボクに何か用が?」
「え? 用が無いと、見知らない人に話し掛けちゃ駄目なのかな?」
「もう、いいです……」
非常に、疲れた。
「そうだ、読み聞かせを聞いてクれてタ子達には、美味しい水飴をプレゼントするんだけれども、九十九神クんには特別に、ボクが独学で訳した旧聖書をあげよう。丁度、ノアの方舟の部分だけだから」
そう言って、薬師さんは、薄っぺらい、ノートの紙で作ったような紙束を僕に手渡す。
何これ気持ち悪い。というか怖い。
「それじゃあまタ会おうじゃないか、九十九の肇クん」
そう言うと、薬師さんは歩いて去って行った。
ホント、嵐のような、変な人だった。見た目と中身のギャップが激しすぎて、嫌悪感さえ覚える。
とりあえず、僕も帰ろうかと今度こそサドルに跨る。
「あら、肇くん。家に居なさいって言っておいたはずだけれど?」
今度は巡さんがいた。
僕はお涼さんに買い物を頼まれたという経緯を話す。
「……ったく、お涼も何でまとめ買いを覚えないのかしら。毎日毎日買い物に行くなんて、馬鹿らしいにも程があるわよ」
それは同意する。
「まあいいわ。丁度、九十九君にも確認をとりたかったから」
「何の、確認ですか?」
「貴方が見た、その、牛のような鬼のようなのについてよ」
「ああ、それですか」
他のことばっかりで、その話題をほとんどしていなかった。
「まあ、九十九君から聞いたときに、大体の見当はついていたのだけれど」
巡さんは、くるりと後ろを向いて、歩き出す。スタスタと、足早に。
「あ、あれ? 巡さん、ちょっと!」
僕も慌てて追いかけた。
巡さんは、カップに注がれたブラックの珈琲を飲む。
和服の姿には似合わない、タルトも口にする。
「……あら、九十九君。そんなに畏まらなくとも、今日は私が奢るのだから、遠慮せずに食べて飲みなさいな」
「は、はい……」
僕は不慣れな手つきで、珈琲を飲む。
巡さんと一緒のタルトも、やや恐縮しながら口に運ぶ。
美味いし甘い。
あの後、巡さんのあとについて行って来たのは。この喫茶店。
シック……というか、大人の雰囲気と言うべきこのお店の、窓際の席に座っている。
店内には聴き慣れない、外国の音楽が流れている。
僕のような、中学生が入るお店では決して無い。
「九十九君」
不意に巡さんが話し始める。
「九十九君が見たのは、“牛鬼”ね。主に水辺……というか、淵に現れるわ」
牛鬼。文字の通り、牛と鬼。
「牛鬼は未だに、どういう理由で生まれるかが判っていないのよ。つまり、人のどういう部分に反応して、凝固して、募って、牛鬼になる経緯が。悲しみで生まれるのかも、勘違いで生まれるのかも、何もかもが、判っていない。ただ判っているのは、人間を襲うということ。それだけなのよ」
巡さんは窓の外を見ながら言う。
経緯が判らない。つまりは、妖を形作る式も判らないということに直結する。らしい。
「ただ、九十九君が遭った牛鬼が、自然に生まれたものではなく、誰かが、意図的に生まれさせた、ということは判ったわ」
「誰かが、意図的に……!?」
妖は、個人や無差別な集団の過剰なストレス、トラウマ、劣等感などが、本人から離脱し、凝固し、ある存在意義を持って動き出す。それが、妖。
だけれど、巡さんと初めて出会ったとき、確かに人為的に作られるとも言っていたような。
「意図的に、何かしらの目的を持って。しかも、一から作るんじゃないの。個人の、まだ小さなストレスやら何かを、無理矢理に増強させて、生み出させるのよ」
巡さんは残っていたタルトを一気に平らげる。
「ふう。それじゃ、九十九君も、何か不審な人を見掛けたら、すぐに連絡して頂戴。あ、警察に連絡するべきか、普通に不審者だったら。なんて」
巡さんは立ち上がる。
不審な人……ね。
いたよね、今さっき。
「めめ、巡さん。ちょっと待ってください」
「んぇ? 何よもう」
不機嫌な顔をして、再び座る巡さん。
「いました、不審な人がしっかりいました」
僕は、第三公園で出会った、不思議で怪しい薬師 識さんについて、巡さんに報告した。
「―――ということなんですが……巡さん?」
巡さんは、頬杖をついたまま、ぽかんと口を開けていた。
「……九十九君、気づかなかったの?」
「え?」
何に、気づかなかったというのか。
「気づかないって……何にです?」
僕がそう訊くと、巡さんは頭を抱えて、はあ、と大きな溜息を吐いた。
「九十九君、その、薬師という人が読み聞かせていたの本は何だった? それと、君が貰ったその手作りの本」
「最初に見たときは……」
ハーメルンの笛吹き。
今日見たのは、竹取物語。
貰ったのは、旧約聖書より、ノアの方舟の部分。
「よく考えてみなさいな。共通点があるから」
「共通点……?」
全く以って、解らない。
「……解らないです」
「そうだと思ったわ」
呆れた顔をする巡さん。
「んじゃあ答え合わせ。ハーメルンの笛吹きは、子どもを連れ去る。竹取物語は、かぐや姫を連れ帰る。ノアの方舟は、民や動物を、連れて行く。気づいたでしょ?」
「全部……何かを持っていく、連れて行く、物語……!?」
今思えば、そうだ。そうだった。
「さらに。笛吹きは角笛を吹く。月の使者は牛車で来る。ノアの方舟は、そのままの通り、舟。この三つにも共通する項目があるわ」
「それは……」
「ふふ、解った。判ったわ。九十九君の報告は、充分に役立ったわ。九十九君」
巡さんは静かに立ち上がる。
「君の初陣よ」
優しそうに、微笑んだ。