第七章 言葉の先に 4
ドアを開けると、涼やかな空気が肌を撫でた。
九月に入ったとはいえ、まだ真夏のような暑さだ。薄い酸素の中をかき分けるように歩いてきた咲良にとって、ようやく息がつける場所にたどり着けた心地になる。同時に、少しだけ緊張もしている。
リハビリ帰りに待ち合わせて訪れたのは、初めて来る凪の家だった。
オートロックを抜けて、五階の部屋。
お邪魔します、と心の中で唱えて靴を揃える。
夏が苦手だという凪は、梅雨が明けてからは広場に立たなくなった。
その代わり、咲良の仕事が終わる頃に店まで迎えに来て、夕食を一緒にすることが増えた。時には、家まで送ってくれた凪を部屋に上げて、一緒にいられる時間を少しだけ引き延ばすこともある。
「こっちにどうぞ」
先導してくれる凪についていくと、廊下の突き当たりのドアをひく。
廊下よりも更に冷えた部屋に通されて、咲良がふるりと震えると「あ、ちょっと寒いか……」と独りごちるように言った凪がエアコンのリモコンを操作した。
「すみません、外から帰ってきて暑いのが嫌で。寒かったら上着貸すんで言ってくださいね」
咲良の住む部屋よりも広い。部屋の奥には大きな机、その上にはモニターが三台置かれていた。キーボードやノートパソコンも並び、さながらトレーダーのようだと思った。
「飲み物、温かいのと冷たいの、どっちがいいですか?」
《温かいのがいいです》
「やっぱり寒いですよね。コーヒーと紅茶とほうじ茶、どれがいいですか?」
《ほうじ茶をお願いします》
「了解。そこ座っててください」
マグカップを手に戻ってきた凪は、お茶と一緒にジップアップパーカーを貸してくれたので、咲良はありがたく膝にかけた。
机の上のノートパソコンと小さな紙袋を手にした凪は、咲良の隣に腰を下ろした。
腕が触れそうな距離に少しだけ緊張している咲良の気持ちなど知らない顔で、氷のたくさん入った自身のマグカップに口をつけた凪は、膝の上のパソコンを立ち上げる。
「こないだ話したアプリ、できたんです」
凪が防犯アプリを作っていることは聞いていた。
スマホに元々ついている通報システムや防犯アプリと違い、そのアプリならその場に居る誰にも気づかれずに、音声とテキストの両方で必要な相手に急を知らせることができる。起動させた側が望めば、自動で録音を開始し、相手に生配信も可能だと話していた。
話を聞いてからまだ二週間と経っていないはずだ。
「すごい」
咲良の喉が掠れた音を吐き出すと、「こら」と凪が咲良の唇に人差し指で触れた。
「声出し禁止、って言われたんでしょう?」
最近咲良の喉はようやく音を鳴らし始めた。それが嬉しくて、なるべく声をだしてみようとしたり、恵からの課題を言われたよりも多くこなした。
おかげで動き始めたばかりの咲良の喉は炎症を起こしてしまい、今日は『次のリハビリまで声を出さないこと』と厳命された。
「よかったら、こっちも使ってください」
差し出された紙袋には、咲良が店で使っているのと同じくらいのホワイトボードが入っていた。パステルピンクで縁取られたそれは、店のものよりも可愛らしい仕様だ。
さらにはボード用のペンも黒だけではなく、パステル調のオレンジとライトグリーンも用意されていた。
「黒だけだと味気ないかもと思って。サンダーソニアの色にしたんですけど……大丈夫そうですか?」
少し心配そうにこちらを見る凪の言葉が嬉しくて、咲良は思わず「はい」と口にしてしまった。
「ああ、ほら、声。……次出したらキスしますよ?」
冗談めかして言った凪は、膝の上の画面に視線を落としてキーを叩く。
咲良は早速ボードを取り出すと、少し照れながら文字を綴った。
《声、出さないとしないんですか?》
ボードを凪に見せると、片手で自身の口元を覆った彼が呻くように「もう……」と呟く。
「……咲良さん、俺をどうしたいんですか」
どうしたい、とはどういうことだろう。
意味が理解できずに考えていると、唇に触れるだけのキスが落とされ、すぐに離れた。
途端に咲良の顔が熱くなる。
凪のほうも、心なしか耳が赤くなって見えた。
《声、出してないのに》
「咲良さんが可愛いこと言うからです」
凪はそう言うと、再びパソコンのキーを叩いた。
「アプリを入れるので、スマホ、借りてもいいですか?」
凪の掌に、スマホを預ける。
彼はパソコンとスマホとをケーブルで繋いで、再びキーを叩いた。
「あ、咲良さん、すみませんがスマホのロックを……」
言いかけた凪に、咲良はペンを走らせて解除の為の6桁を告げる。
「……ちょっとは警戒してください」
凪は困ったように眉をさげて、窘めるように溜め息を落とした。
咲良とて、誰彼構わずこんな真似はしない。
凪が咲良のスマホを悪用するはずもないし、了承なしに中身を見るようなこともしないだろう。
《凪さんだからですよ?》
当然の信頼を差し出すと、凪はまた呻くような声を小さく漏らして目元を染めた。
照れるようなことを伝えただろうか。
きょとんと見つめる咲良に何か言いかけた凪は、はくりと口を動かしただけで視線を逸らすと、「……アプリ、入れますね」と再びキーをたたき出した。
凪は咲良のスマホとパソコンとを交互に操作しながら、自身のスマホも取り出して表示を確認している。アプリの動きを確認しているのだろう。
プロの顔になった凪の横顔を少しだけドキドキしながら見つめる咲良に、「本当は」と凪が口を開いた。
「筆談がラクになるようなアプリを作れないかなとも考えたんです。でも、咲良さんが書く文字の空気感は残せないし、感情をのせるのも難しくて、だったらスマホで打つ方がいいかって諦めました」
凪は話しながらキーを打ち続ける。
「俺、Lynelみたいな……Lynelとは違うアプリを作ってみようと思ってるんです」
互いの息づかいが見えないせいで、尖った言葉がエスカレートしていく。
Lynelで思い描いたほどに、世界は優しさだけではできていなかった。
「俺がどう計算したってきっと人の悪意はなくならないし、人が傷つくのも止めることができない。だから今度は、そこを出発点に考えてみようと思って」
凪はぽつぽつと構想を語りながらも、彼の指先は淀みなくキーを打つ。
やがて、「はい、できました」と手を止めると、咲良のスマホを返した。
画面には見慣れないアイコンが増えている。
きっと動物の顔だ。犬だろうか。いや、馬だろうか。
(午年だから馬……?)
「……狐ですからね」
凪の拗ねた声に、咲良は小さく笑った。そうしてすぐにボードに文字を綴る。
《狐の凪さんが守ってくれるってことですね》
「まぁ……はい……」
凪は軽く咳払いすると、アプリの使い方を説明してくれる。
思った以上にシンプルな操作で、設定した相手に急を知らせる作りだ。これなら確かにあの時のようなことが起きたとしても、スマホさえ手元にあれば凪に助けを求められそうだ。
「緊急通報で、用意してある音声メッセージを送れるようにもなっています。このへんは咲良さんのリハビリの進捗に応じてアップデートしていきますね。来年の今頃には、いったん作り直すくらいの想定でいるので」
来年の今頃。凪は来年も咲良の傍にいると思っていてくれる。
咲良はそれがたまらなく嬉しかった。
胸のあたたかさを感じて、自然と笑みがこぼれる。
「また、そういう……俺、試されてます?」
試すって何をだろう。
不思議に思って凪を見れば、困ったように再び口元を掌で覆う凪は、「よし! 外、行きましょう」と立ち上がった。
「このままだと俺の理性が……いえ、そうだ、シャインマスカットのタルト、食べに行きませんか? 咲良さん行きたがってたでしょう?」
SNSで紹介されていたカフェのタルト。宝石のように並ぶシャインマスカットの画像を思い出して、咲良の顔が輝く。
けれど、外の暑さを思うと、このまま屋内で過ごす方が凪にはいいのではないか。
そう思って尋ねると、「俺のためにも外に行きましょう」と返った。
はい、と差し出された手を握り返す。
軽く引かれてソファーから腰をあげた咲良は、間近にある凪の顔を見上げると口の動きだけで想いを告げた。
すると、再びキスが落とされた。
声、出さなかったのに。
幸せな抗議は、音にならないまま二人の間で溶けていった。
END
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