第七章 言葉の先に 3
昼とも夜ともしれない部屋に籠もっているうちに梅雨入りし、それが明けたと錯覚するような陽射しの下を歩く。
一昨日の夜、凪は久しぶりの自宅で倒れ込むように眠りについた。目を覚ますと、既に翌日の夕方となっていた。
咲良に会いたい。
そう思っても、髭をそる時間すらとれないような日々を経た凪は、まずは身なりを整え直すことから始めなければならなかった。
はやる気持を抑えて午前中のうちに髪を切りに行き、その足で咲良の元へと向かった。
電車を降りた途端、湿度の高い暑さがまとわりつく。
暑さが得意ではない凪は一瞬怯んだものの、急ぎ足で駅の階段を降りた。
足の運びは加速していく。
何を話そうか。まずは謝罪だろう。
昨日からずっと考えているシミュレーションをなぞる。
デートのような時間を過ごしておきながら、なんの連絡もなく一ヶ月も姿を見せなかった。彼女はどう思っただろう。
自分なら、心配する。咲良だってきっとそうだったろう。そう思った。
改めて連絡先を交換しなかった己を心の中で罵りながら、駅前広場へと向かう。
すぐに、店先でしゃがんで作業する咲良の背中が見えた。
早足で店の前まで行くと、以前にはなかったイーゼルに掛けられた黒板が置かれている。
笹と短冊の絵。その上には、見慣れた咲良の文字が綴られていた。
『あなたは誰に会いたいですか』
(咲良さんに、会いたかったです)
凪は足を止めて、小さく深呼吸する。
背後から声を掛けたらきっと驚かせてしまう。かといって、待つのももどかしすぎて、そっと歩を進めた。
咲良は鉢植えの花を整えていた。
驚かさないように。ぐっと手を握りしめて逸る心を律しながら、控えめに声を掛ける。
「こんにちは」
勢いよくこちらを振り仰いだ咲良は、ピシリと音をたてそうなほどに表情をこわばらせた。
「あ、すみません。驚かせちゃいましたよね……」
のろのろと立ち上がる咲良はにこりともしない。
怒りとも違う静かな拒絶を感じながら、凪は言葉を続けた。
「え、と……元気でした、か? っていうのもなんですけど」
微笑んでくれると思っていたわけではなかった。
ただ、無事な姿を見せることで安堵してくれるとか、もしくは急な失踪を責められるとかそんな想定をしていた凪からすると、咲良の表情が何を意味しているのかわからない。
「連絡できずにすみません。それも……俺が悪いんですけど」
会話のためのスマホを取り出す気配すらない咲良は、そのまま俯いてしまう。
少し焦りながら「あの、今日、よかったら夜、食事にいきませんか?」と誘いを口にすると、咲良は驚いたように顔をあげた。そこに喜色はない。
凪の心臓が嫌な音をたてる。
咲良は緩慢な仕草でようやくスマホを取り出すと、《すみません。行けないです》と告げた。
「あ、急すぎでしたよね。いつなら平気そうですか?」
尋ねながらも、急だから断られたわけではないことを、凪はどこかで理解していた。
それでも可能性に賭けたその問いかけに、咲良はひどく落胆した顔を見せた。
《彼女のいる人とふたりで食事はできないです》
「……え?」
思考がフリーズする。
『彼女がいる人』
誰が? と思う。そしてすぐに理解した。
彼女がいると、思われている?
違うと言いかけた途端、客に呼ばれた咲良は目を合わせることもなく背を向けて行ってしまった。
凪は接客をする咲良を見つめ、立ち尽くすしかなかった。
なぜ、と繰り返しながら、フラフラと近くのコンビニまで歩く。
堂々巡りだった凪の思考は店内の空調と、冷たい炭酸飲料のお陰でようやく少し動き出した。
いろいろな可能性を検討しても、思い当たるのは綾華のことだけだった。
咲良と綾華とは面識があるし、仕事仲間であったことも知られている。
もしも綾華が呼びに来た時、咲良がそれを見ていたとしたら。
会話は聞こえなかったはずだ。だからこそ、やってきた綾華が凪に抱きつき、抱きとめたように見えたのではないか。
すぐにでも店に引き返して、咲良の誤解を解きたい。
手の中のペットボトルがひしゃげて、ハッとする。そうして息をつけば、駆け出しそうな気持に少しだけブレーキがかかった。
彼女の仕事の邪魔はできない。なにより、仕事の片手間にするような話でもない。
凪はもう一度深く息を吐いた。
凪がパントマイムを始めたのは、Lynelも含めた何もかもを放り出してすぐの頃だった。
それまで街なかで大道芸を目にすることはあっても、見ている暇などなかった。
けれど、その日は違った。
会社を手放したことで、持て余すほどの時間と、次の仕事を探す必要もないほどの金を手に入れていた凪は、見るともなしに足を止めた。
噴水の前で、パフォーマーは透明な箱に閉じ込められていた。
人の輪の中で、見えない荷物に引き摺られて転がり、何かにのし掛かれては四苦八苦している。
そこには舞台装置はおろか言葉すらなかった。動きだけで、あたかもそれらがあるように体現していく。
器用なものだな。
そう思いながら、立ち去る気にもなれずに近くの石段に腰をおろした。
やがて、見ていた人から、さざめくような笑い声があがった。
周囲の人の顔を見れば、愉しそうに目を輝かせ、笑みを浮かべている。
凪が創りたくて、失敗したもの。
知らない同士が同じものを見て楽しみ、ほんの少し関わって、笑い合う空間。
けれど、Lynelは、罵り合い、貶め傷つけて、しまいには死人まで出す場所となった。
Lynelだけではない。凪自身もそうだ。
信頼していた幼馴染みは、いつから凪を恨んでいたのか。ネットの海に汚い言葉を吐き捨てたくなるほど、それを凪に向けたくなるほどに、いつのまに彼を傷つけたのか。
やりとりしたのは、他愛ない言葉ばかりだったはずだ。
時に仕事の愚痴を言って励まされ、笑いあう、大切な友達だと思っていた。
言葉は、必ずしも思った通りには届かない。画面越しならそれに気づけない。
見よう見まねで始めたパントマイムだったけれど、ほんのひととき足を止めてくれた人が笑顔になるのが嬉しかった。
四季の移ろい、陽の傾き、そこに自身だけを置いて、生のリアクションに確かな手触りを感じる。
言葉なんてなくても、人を楽しませることができる。
少なくともマイムなら、誰かを傷つけることはない。そう期待した。
それでも、沈黙で伝えるには限界があった。
咲良が差し出す花は雄弁だった。そこには受け取る相手への思いやりや、気づかいや、励ましがあった。
もちろん、咲良が本当に思っていることまでは語らない。
咲良は『声』こそなかったけれど、丁寧に思いを綴っていた。きっと初めは、その『言葉』に惹かれたのだ。
それに比べて自身は、連絡先ひとつ交換することさえ恐れて、『言葉』から逃げた。
お陰でこの有様だ。
今日、伝えたい。自分の言葉で、咲良に。
彼女の仕事が終わるまで、まだ数時間ある。
凪はどう伝えるのが最善か、昨夜と同じようにいろいろな会話のシミュレーションを繰り返した。
それなのに。
「俺の勝手で申し訳ありません。でも、好きな相手に誤解されたまま終わるなんてっ、あ……」
日中の暑さが嘘のようにひいた夜風の中で、大切に差し出すはずだった言葉がこぼれ落ちた。
しまったと口に手を当てたところで、なかったことにはならない。放った言葉は戻らない。それでも、それは紛れもなく本心だった。
凪は白旗をあげるように息を吐いて、咲良とまっすぐに視線を合わせた。
「咲良さんが、好きです。咲良さんだけが……俺、彼女なんていないです。だから、少しだけ話を聞いてもらえませんか?」
身じろぎひとつせずに固まる咲良の答えをじっと待つ。
数分にも感じたけれど、実際は数秒だっただろうか。
困惑を残しながらも、咲良が小さく頷いた。
「ありがとうございますっ」
呆れるほど弾んだ声が出た。
咲良も驚いたのだろう。ぱちぱちと瞬きした後、ほんの少し口角があがった。
「あ、俺、飲み物買ってきます。咲良さんはそこに座って待っててください。ミルクティーとかほうじ茶とか、……何がいいですか?」
《ミルクティーをお願いします》
凪は自販機まで駆けてミルクティーを買うと、急いで咲良のもとまで戻った。
いつかの夜のような桜は咲いていない。時折吹く風に、葉桜がさわさわと音をたてるばかりだ。
銀行の障害発生は報道はされても、その裏で一ヶ月にもわたる作業が行われているなど、知られているはずもない。
咲良も意外そうな表情をしながら、耳を傾けてくれた。
《なんで綾華さんが凪さんを呼びにきたんですか?》
「実は以前少しだけ、俺があのシステムに関わったことがあるんです。それで、綾華に連絡が入って……」
あのシステムについて、今の責任者が綾華の婚約者だったと知らされたのは、プロジェクトが終盤に差し掛かった頃のことだ。
責任者といってもあくまで銀行側の担当者というだけで、あの障害を収められる技術があるわけではなかった。
それでも収束しなければ責任問題に発展する。
綾華が必死になって凪を呼びに来たのは、つまりそういうことだった。
そこまで伝えると、咲良はようやく肩の力が抜けたようで、長く長く息を吐いた。
《誤解してごめんなさい》
「俺が誤解させたんです。すみません。……連絡先を交換しておけばよかったって、本当に後悔しました」
《凪さんは私に連絡先を教えたくないのかなって思ってました》
「そんなことっ、……そんなこと、ないです」
言葉はすれ違う。多くても、足りなくても。気づけないまま、自分たちはとっくに行き違っていた。
だから今、凪は本心を差し出した。すれ違っても気づけるように、慎重に咲良の顔を見ながら言葉を紡いだ。
「……怖かったんです。目が届かないところで、俺の言葉が咲良さんを傷つけてしまうのが」
意外だったのだろう。咲良は軽く目を瞠った。
好きな相手には格好良く思われたい。でも、自分はこんなに臆病で情けない。
《私も怖かったんです。連絡先を交換しない理由を凪さんにきくのが》
《だから、おあいこですね》
ようやく微笑んだ咲良は、こちらに向けたスマホを下ろすと、再び文字を入力する。
いつもよりも迷いながら神妙な面持ちで紡がれるそれを、凪は辛抱強く待ち続けた。
咲良はそっと自身の喉を撫でた。
日中の暑さが嘘のように、涼やかな風が吹く。
寒くないですか、と訊こうか迷っていると、彼女は半身をこちらに向けてまっすぐに凪を見つめてきた。
「 」
咲良の唇から、掠れた空気が漏れる。それはまだ、声とは呼べないほどにざらついていた。
でも、唇の動きでわかった気がした。
すきです。
そう言われた。
咲良は再び喉を撫でて苦笑を溢すと、スマホに文字を入力し始めた。
「今、すごく嬉しい声が、咲良さんの声が聞こえました」
胸が震える。大切な人がくれた言葉が、凪の心に染みていく。
凪の言葉に、咲良ははにかむような笑みを浮かべると、スマホを掲げて見せてくれた。
《声はまだ無理そうでした》
《凪さんが好きです》
「──っ、抱き締めても、いいですか?」
すぐにでも腕の中に閉じ込めたい。その衝動を抑え込みながら、凪はどうにかお伺いをたてる。
頷く様に、咲良を怖がらせないようにそっと引き寄せて抱きしめた。
腕の中で身を固くした咲良が、やがてゆっくりと力を抜いていく。
やわらかな熱を感じながら、凪が口を開こうとしたその時。
互いの体に、グゥと小さな音が響く。腹が、鳴った。
いっそ消え入りたい気持ちになりながら、凪は呻くように「すみません」と身を離した。
今日は朝食も食べずに家を出たし、それ以降は食事どころではなかった。
自身の腹を恨めしく思いながらさすると、くすくすと笑う咲良は《私もお腹がすきました》と画面を掲げる。
本当なら今日はどこかの店を予約して、咲良を連れて行きたかった。朝はそう意気込んで家を出たはずだった。
それでも、ひいたコードの通りには走らなかったけれど、大切な場所にはちゃんとたどり着いた。たどり着けた。
凪は咲良の笑顔に目を細めると、ベンチから立ち上がった。
「とりあえず、ファミレスにでも行きましょうか?」
そう言って差し出しかけた掌を、自身のズボンに滑らせた。
気づかれなかっただろうかと窺いながら笑みを向けると、咲良からも笑みが返る。
今度こそ差し出した手に、重ねられた小さな手をやわく握り込んだ。




