第一章 サクラとキツネ 3
レジ周りのリボンを並べ直していると、店の入口に人影が差す。
顔をあげると、黒いデイバックを肩に掛けた男性がやってきた。
手にしている狐面に、小さく息を呑む。
(あの人だ)
美弥はおらず、店内にいるのは咲良だけだ。
静かな店内に、彼の黒いスラックスの裾が、音もなく踏み込まれる。
咲良より、ほんの少しだけ目線が高い。
二十代半ばかもう少し上だろうか。
少なくとも年上に見えた。
「すみません、あの……花をいただけますか」
(なんだ。声、でるんだ)
低く穏やかな声だった。思っていたよりもやさしく、耳の奥に残る。
面越しではない目を見るのは初めてだった。
想像していたよりも、あたたかい目をしている。
思わず取り落としたリボンが転がって、レジ台に青いラインが走ったのを、咲良は急いで掴まえた。
彼は、声を掛けたもののまだ迷っているのか、視線は店内を行ったり来たりしている。
咲良はレジ下に隠したパウチカードに指を伸ばす。
これを出す瞬間、客は表情を変える。その瞬間が、たまらなく嫌いだった。
カードを掲げる。
《どんな花をお探しですか?》
掲げたカードに、彼が小さく目を見張る。
まただ。
このあと向けられるのは、好奇か同情、気まずさを宿した目。
そんな眼差しを見たくなくて、軽く目を伏せる。
「それ」
顔をあげると、彼は店先の花桶を指差していた。
「その、黄色いの、いや、白にしようかな」
彼は口頭で、淡々と答えた。
咲良の筆談を、特別なものとして扱わなかった。
それは嬉しいことのはずなのに、なんだか居心地が悪い。
目を伏せたまま、小さなホワイトボードを手に、彼の横をすり抜けて花桶を指し示す。
《フリージアですか?》
「はい。白いのを1……3本ください」
《プレゼントですか?》
「はい、あれ? はい?」
回答に迷う様に、先ほどのピンクの風船が過った。
《風船の代わりですか?》
ボードを掲げてから、訊きすぎただろうかと心配になる。
けれど、アーモンドのような瞳をふと細めた彼が、「そうです。明日のパフォーマンスで使おうと思って」と頷いた。
淡い笑みに鼓動が跳ねる。
(狐面をしないほうが、女の子が集まって人気がでそう)
咲良は、明日の見頃を考えて3輪を選び出す。
フリージアの甘い香りが、静かな店内にふわりと漂う。
「いい香りですね」
《1本ずつ分けますか? 3本まとめますか?》
「1本ずつでお願いします」
明日はきっと3つの笑顔がこの広場に咲く。その光景を思い描きながら、丁寧に1本ずつ包む。
静かな店内に、花を包むセロファンを整える音だけが淡く響いていた。
「あの」
顔をあげると、彼が少し言い澱んだ。
「あ……その、花言葉はなんですか?」
フリージアはいくつかの花言葉を持つ花だ。
友情、憧れ、無邪気。
フリージアの一般的な花言葉と、白いフリージアの花言葉のふたつを並べて書く。
《感謝・あどけなさ》
「ありがとう」
彼は頷いて、支払いを済ませると、大切そうに花を抱えて店を出て行く。
その腰には、白いふさふさした尾が揺れていた。
小さな子が手を振るように揺れる尾に、咲良の唇が知らず弧を描いた。
狐面の彼──凪と咲良が共に桜を見上げたのは、それから一週間後のことだった。




