第七章 言葉の先に 2
会議室に足を踏み入れると、室内には殺気だった雰囲気が充満していた。
いっそ懐かしくもある空気だ。
広場でパフォーマンスをしていた凪に助けを求めてきた綾華の様子に、嫌な予感はしていた。
各チームの責任者から簡単な状況説明を聞き、確信した。──当分、家には帰れそうにない。
泥のように疲れていて腕をあげるのすら億劫なのに、冴えすぎた頭が眠りを遠ざけている。馴染みのない枕であることも、それに拍車をかけていた。
凪は、二週間ぶりのベッドに埋もれながら、深い溜め息を落とした。
凪が呼ばれたのは、金融機関のシステム障害のためだ。
ATMの停止はもちろんのこと、個人の預金残高すらも把握できない。振り込みも引き落としも止まり、銀行業務の一切を動かすことができない。
もちろん一日とたたず復旧はする。表面上は。
けれど、メインシステムから切り離し、無理やりオフラインで稼働させれば、その後にはデータを正しく繋ぎ直す必要がある。
当然この障害の原因究明と対処も課される。
凪は、しばらく人間らしい生活は無理だろうと腹をくくらざるを得なかった。
問題は、障害の複雑さだけではない。
自身のプロジェクトで、最初から指揮権を持っているならまだしも、精鋭という名の寄せ集めの中に連れてこられた凪は、全体の掌握から手をつけなければならなかった。
課せられた役割をこなしながら、コードを読み、複雑に絡んだ糸の結び目を探し出す必要があった。
流れが変わったのは二日目の夜だ。
「そこじゃないです。みんなが見ているのは旧信金系のテーブルですけど、エラーを返しているのはその二層下の旧F系、古いストアドプロシージャです」
確信をもってあげた声にも、皆どこか半信半疑の目を向けてきた。けれど、これを放っておくと事態はますます悪化する。
「さっき打ったパッチのせいで、七年前のデッドロックが呼び覚まされてます。……全員いったん手を止めてください。このままだと一時間後には全データが飛びます」
その一言で、凪は指揮権を手にした。
指揮権を持つということは、他の誰が現場を離れても、凪だけはそこに居なければならないということだ。
近くのホテルをあてがわれてはいても、そもそも作業部屋を出ることが出来ない。
この二週間は、横になることもままならず、いつ寝て、起きたのか、時間すらもわからないような日々だった。
ヘッドボードに置いたスマホに、のろのろと手を伸ばす。
いくつかのメールが来ているのを確かめて、凪は溜め息を落とした。
こんなことなら、せめて咲良に声だけでもかけてくればよかった。
綾華は切羽詰まった様子で腕をひくし、咲良は接客中で声を掛けられそうな状況でもなかった。
ごろりと仰向けに転がって、腕で目を覆う。
暗い瞼の裏に浮かぶのは、水族館に出掛けた日の咲良の姿だ。
襟元に刺繍のあるシャツに、普段店に立つ時には履かないであろうスカート姿の彼女はとても可愛かった。
それなのに、待ち合わせの三十分も前に着いていたのを覚られないようにするのに必死で、よく似合っています、とか、可愛いです、と伝えるタイミングを逃してしまった。
水族館に着いてからは、手を繋いでいいか訊こうとして、結局言えずじまいだった。
中高生の恋愛のようだと、我ながら思う。
けれど、いまだ背後から声を掛けただけで肩をはねさせる咲良が、男と手を繋ぐなんてしたくないだろうと思ったし、そんなことを言ってお互いに気まずい思いをするのを避けたかった。
それでも、ガラスの向こうに見入る咲良の横顔は可愛くて、十代の恋のように胸が高鳴った。
そんな咲良が他よりも長く立ち止まり続けたのは、クラゲの水槽の前だ。
ふわふわと重力も水圧も感じさせずに漂う彼らをあんまり幸せそうに見つめているから、いっそ海中で見られるようにしてあげられないかと、頭の中でいくつかのコードを呼び起こしていた。
咲良といると、いつの間にか頭の中をコードが走る。
例えば彼女の筆談をもっと快適にできないだろうか、とか、花束のオーダーをスムーズにできたら役立つだろうか、とか。
もう創ることはコリゴリだと思ったはずなのに、考えてしまうのだ。
何を創れば、咲良が笑ってくれるだろうか、と。
イルカショーを見ていた時には、前に座るカップルが軽口をたたきあう様が少し妬ましかった。
もしも凪が話しかければ、咲良はスマホで応じてくれる。でも画面を見ている間は、咲良がショーを見ることができなくなる。
後でゆっくり話せばいい。夕食に誘えば、一緒に過ごす時間を伸ばせる。
そう思っていたけれど、《人がいっぱいな場所が久しぶりで》と目を伏せた咲良はひどく疲れた顔をしていて、引き留めることなどできるはずもなかった。
ふいにアプリの通知音が鳴り、凪はスマホに視線を向けた。綾華からだ。
謝罪の言葉が目に入り、疲れている今、それ以上読む気にもなれなかった。
咲良と、連絡先を交換しておけばよかった。
今更すぎると思いながら、凪は苦い気持でアプリのアイコンを見つめた。
《はぐれた時のために連絡先を交換しておきませんか?》
蒼い光の揺らぐ空間で咲良にそう伝えられた時、凪は背筋がヒヤリとした。
「ちゃんと見ておくから心配しないで大丈夫ですよ」
そんな言葉で誤魔化したけれど、ただ怖かっただけだ。
今、咲良の連絡先を知っていたら、広場に行けなくなった理由も、まだ当分行けそうにないことも伝えられただろう。
おはようございます、とか、おやすみなさい、とか、そんな他愛ない言葉だけでもやりとりできたはずだ。
けれど、と思う。
Lynelだって始めはそうだった。
”おはよう”に”おはよう”が返り、”仕事終わった”に”お疲れ様”と誰かが労っていた。
放り投げたボールを、見知らぬ誰かが受け止める、そんな想定だった。
ドッチボールのように──それよりひどい、石や刃を投げつける人がいるなんてことを計算に入れていなかった。
計算外はもうひとつあった。
誰かにとってはボールでも、違う誰かにとっては刃になる。
同じ言語を使っているとは思えないほどに、どこまでもすれ違っていく。
だから凪は、相手のリアクションがその場で見えない言葉のやり取りが──誰よりも傷つけたくはない咲良とのやり取りが、怖かった。
それなのに今、咲良の言葉が欲しい。
他愛ない言葉を、咲良だけには伝えたい。
我ながら自分勝手だと自嘲するうち、凪はいつの間にか眠りに落ちていった。




