第六章 枯れた花、咲いた花 1
水族館の翌日──金曜日には、凪は広場に現れなかった。
咲良は作業の合間にいつも凪がいる場所に視線を投げながら、姿が見えないことに少し安堵していた。
土日も、凪がパフォーマンスに現れることはないとわかっていたはずなのに、客が訪れるたび、咄嗟に肩に力が入ってしまった。
そうして迎えた月曜日。いつものように園児たちの朝の散歩の列が店の前を通り過ぎても、まだ凪の姿はない。
あの日から、咲良は幾度も水族館での出来事をなぞって過ごした。
蒼い光に浮かぶ彼の横顔。こちらを見るやわらかな眼差しと笑顔。
いろいろな凪の顔を思い返しては胸を高鳴らせ、そのたびにうまく伝えられなかった言葉たちが咲良の心に重くのし掛かった。
火事の後、大学の友人たちと食事をした時は、彼女たちの会話に追いつけなかったことが寂しかった。
でも、今回追いつけなかったのは咲良の心だ。心の早さに、伝える手段が追いつかなかった。
どうにか文字へと落とし込んでも、感情は濾過されて少しだけかたちが変わってしまう。しかも、その間に水の中は移ろい、言葉と一緒に遠のいてしまう。そんな感覚を幾度となく味わった。
周りの人たちは他愛ないことを伝え合い、笑い合っているのに、自分たちはそれができない。
勝手に比べて、苦しくなって、せっかくの時間をただ楽しむことができなくなってしまった。
凪にもきっと気を遣わせただろう。一緒に出掛けたことを後悔しているかもしれない。
次に会った時に、凪からそれを感じ取ってしまうことが、咲良は怖かった。
それなのに、ただ会いたいと思ってしまう。
「この花束をください」
いつの間にかやってきた客が、作り置きのミニ花束を指差していた。
先ほど咲良が組んだばかりの赤いダリアのそれを指差す女性は、自宅用だと言って大切そうに花を抱えて店を出て行った。
再び広場に視線をやった咲良は、小さく息を呑んだ。
凪が、いた。
狐面を被り、静かに佇んでいる。吹き抜けた風に、腰に付けた白い尻尾がふわりと揺れても、人形のように微動だにしない。そこだけ時間が止まっているように見えた。
会うのが怖いとか気まずいかもしれないという不安など忘れて、ただじっと彼の姿を見つめる。
胸がきゅうと苦しくなるのに、嬉しさが勝ってしまう。
そんな自分を自覚して、咲良は苦笑を浮かべた。
好き。会いたい。言葉を交わしたい。それが本音だと、白旗をあげる。
今日も花を買いに来てくれるかもしれない。でも、不確かなそれに賭ける気にはなれなかった。
(私から、凪さんのところに行こう)
もしも彼が困った顔をしたら──その時は、仕方がない。
想像しただけで喉の奥が詰まったように苦しくなる。それでも、きちんと向き合いたかった。
店の壁掛け時計に視線をやる。
銀行に行っている美弥も、いつもなら戻ってきている時間だ。
美弥が戻ってきたら、少しだけ休憩を貰って凪のところに行こう。
あの日うまく伝えられなかったことも、それがもどかしかったことも。
凪が──好きだということも。
魔法の言葉はないけれど、ただまっすぐ伝えたい。
ふと視界の端に女性の姿がうつる。早足で歩く彼女は、まっすぐに凪の元へと向かう。
綾華だった。
いつかと同じ高いヒールで、淀みなく足を運ぶその靴音がやけに大きく響いて感じる。
凪も彼女の姿に気づいたのか、彼がゆっくりと顔をあげて視線を向けたのと、綾華が凪に飛びつくように縋ったのは同時だった。
呼吸が、止まった。
凪の腕が、綾華の背に回った。
見たくないのに、視線を離すことができない。
凪の大きな掌が、綾華の背を優しく撫でる。
「すみません、お花をくださる?」
ハッとして見ると、老婦人が立っていた。
「孫のお祝いにね、お花を買っていこうと思って。若い子はどんなお花がいいかしら?」
咲良の胸はまだ嫌な音をたてて鳴っていた。どうにか宥めようと、そっと息をする。
お祝いの花。
客の言葉を反芻して、意識を仕事モードへと引き戻す。
ホワイトボードを手に、予算や好みを尋ねていく。
婚約のお祝いだという華やかな花束を組み終えて客を送り出した頃には、もう凪の姿はどこにもなかった。
なにかがぽっかりと空いてしまって、咲良はただ凪を欠く広場の光景を見つめて立ち尽くした。
ほんの先ほど見た場面が、頭の中でリフレインする。
凪は、綾華と共に行ってしまった。その事実だけが、咲良の胸を押し潰す。
「遅くなってごめんね、さくちゃんっ」
美弥が急ぎ足で戻ってきた。
「両替できなくてあちこち……大丈夫? 具合悪い?」
咲良は、水族館でもそうしたように口の端を引き上げて、ゆるく首を振った。




