第五章 小さな一歩 4
音楽にあわせて、イルカがジャンプを繰り返す。そのたびに白い水しぶきがはね、スタジアムから歓声があがる。
ショーには五頭のイルカが参加するらしい。
体の大きさや顔つきなどはどれも同じに見えるけれど、一頭だけお腹がうっすらピンク色をしている。
凪に伝えようとスマホに入力するよりも早く、前に座った女の子が「あの子だけお腹がピンクっぽい!」と指差す。その隣の彼も「お、ホントだ。あれだけ違うな」と頷いている。
すぐに違うイルカがお腹を上にして泳ぎ、まるで観客に手を振るように前ビレをぱたぱたと動かした。
咲良は、「可愛いですね」という凪の言葉に頷いた。
ステージではイルカたちが水面から顔を出して、飼育員の前に並んでいる。
「はーい、それじゃあ出席をとりますよ~」
飼育員の女性の明るい声が響く。
「呼ばれた子は元気にお返事してくださいね~」
飼育員が一頭ずつ指差して名を呼ぶと、キュイッ!と高く澄んだ返事があがり、観客席は微笑ましい雰囲気に包まれた。
「返事するの可愛いな」
前に座る彼がそう言って「な、──ちゃん」と彼女の名を呼ぶと、彼女が「はぁい」と小さく手をあげて返事をする。そんな彼女に、彼が愛おしそうに目を細めつつ、「そうじゃなくて」と笑った。
ふたりのやりとりを見ようとしているわけではないものの、緩やかな傾斜のある観客席では、ステージを見下ろせば彼らの様子は視界に入ってしまう。
咲良はこちらのほうが恥ずかしくなってくるようなやりとりから一生懸命意識を剥がして、ステージに集中する。
それでもカップルの絶え間ないやり取りや、ショーを楽しむ姿はどうしったって見聞きすることになってしまう。
その間も、ショーはどんどん進行していく。
飼育員の小さな動きを見逃すことなく、イルカがステージへと乗り上げる。他のイルカが尾びれで力強く水面を打ち、水しぶきをあげる。
イルカたちが「できたよ!」と報告するように水面から顔を出すと、ご褒美の魚が飼育員の手から放られた。
そこに言葉はない。
イルカは飼育員のハンドサインで動いているのであって、人間の台詞を聞いて動いているわけではないだろう。けれど、こうして見ていると、彼らは言葉を理解しているのではないかと思えてくる。
ふと凪のほうを窺い見ると、こちらを見ていた彼と目が合った。どうかしましたかと問うような眼差しに口の端を引き上げて見せると、凪も笑みを浮かべた。
スマホを持つ手に、知らず力がこもる。
伝えたいことは次々生まれてくるのに、それを渡すのが追いつかない。
あのイルカのお腹だけピンクなこと。
鳴き声が可愛いこと。
ジャンプが高いのがすごいと思ったこと。
イルカが人の言葉をわかるような気がすること。
絶え間なく動き続けるステージ。それと一緒に生まれてくる感情を、リアルタイムで共有したい。
目の前に座るカップルが当たり前にしているように、凪と笑い合いたい。
咲良がどれかひとつでも伝えたら、きっと凪は画面を覗き込んで言葉を返してくれるだろう。でも、その間にもショーはどんどん進んでいく。
仕方がない。ほんの少し、間に合わないだけだ。
終わったら伝えよう。後からだって共有できる。
咲良はスマホを握る指先から力を抜いて、細く息を吐いた。
クライマックスに向けて、音楽のテンポが早くなる。それにあわせて幾度も跳ねるイルカたちが、最後に揃って高いジャンプを決める。
スタジアムを満たす大きな拍手と共に、ショーは幕を下ろした。
「楽しかったね」
「うん、楽しかった。イルカショーなんて見たの久しぶり」
前に居たカップルが立ち上がる。
咲良も凪のほうをうかがいながら腰を上げた。
「楽しめましたか?」
凪の言葉に、咲良はすかさず頷いた。
「よかった。とりあえず館内に戻りましょうか?」
スタジアムから館内へと移動する人波に逆らわないように、流れにのるようにゆっくりと歩を進める。
誰も彼もが笑顔で、今のショーの話や、次は何を見ようかと口にしている。
咲良はスマホを取り出して、先ほど伝え損ねた言葉たちを凪に共有しようと言葉を選ぶ。
凪さんは楽しめましたか。
最後のジャンプが一番高かったですね。
何を伝えようか。何から伝えようか。
ショーの最中に感じたことは、どれもこれも今更改めて伝えるほどのことでもないような気もしてくる。
あの瞬間だから、伝えたかった。そういう種類の感情だったように思える。
ふいに、はしゃいだ子ども達が無理にすり抜けようとして咲良にぶつかった。
──っ!
「っと、大丈夫ですか?」
よろけた咲良を、すかさず凪が支える。見た目よりも力強い腕に、咲良の鼓動が跳ねた。
次の瞬間。
「スマホは後にしましょうか。人混みを抜けてから」
凪が苦笑するように眉を下げた。
息が、詰まる気がした。
凪の言っていることは正しい。ここでスマホを入力しながら歩くのは危ない。咲良もそう思う。
咲良は小さく頷いた。
安全を考えれば当然で、凪はひとつも悪くない。
伝えるのがあとほんの少し後になったって、今さら大差はない。
わかっているのに、たったひと言すら伝えられない自分が、とても悲しかった。
館内のペンギンが展示されるスペースまで来て、ようやく人の流れが落ち着いた。
「大丈夫ですか? 疲れちゃいました?」
凪の気遣わしげな声音に、うまく取り繕えていない自分を突きつけられた心地で、咲良は少しだけ口の端を引き上げながら頷いた。
うまく、笑えているだろうか。
《人がいっぱいな場所が久しぶりで》
「なるほど……。だったら、もう一通り見たし、電車がラッシュになる前に切り上げましょうか」
今のうちなら大丈夫でしょうから、と凪が腕時計に視線を落とした。
その横顔を見つめながら、咲良は自分で自分にがっかりしてしまう。
ただ楽しい時間を共有したかっただけなのに、凪に気ばかり遣わせている気がしてしまう。
一緒にいればいるほど、面倒だと思われてしまうんじゃないだろうか。そんな不安が増えていく。
結局そのまま水族館を出て、ふたりは駅へと歩いた。
電車はすいていて、今度は座ることができた。
「楽しかったですね」
そう言って微笑む凪の言葉に嘘はないだろう。咲良だって楽しかった。
けれど、今、胸に居座るのは、暗くてひんやりとした気持ちだ。
「咲良さんは、クラゲ、好きですか?」
《好きというか、癒やされるなって思いました。流れに身をまかせて動いている感じとかずっと見てられそうな気がして》
「俺も……癒やされるなって思いました」
クラゲを見ていた凪の横顔は難しく考え込んでいて、癒やされていたというよりも難解な問題を突きつけられたような顔だったのではと思う。
ぱちりと瞬きをした咲良に、凪は「咲良さん、顔に出すぎです」と小さく笑った。
「癒やされるなって思ったから、いつでも見られるようにしてあげ……できたらなって考えてたんですよ」
凪の言葉に、なるほど、と頷く。
Lynelの話を聞いた時、彼は『自分が世界の創造主になったくらいの気持ちになっていった』と自嘲していた。けれど、彼は確かにLynelという『言葉の世界』の創造主だった。
そうして今日、海の中の世界を創れないかと考えていたのだとしたら、それはきっととても彼らしいことなのかもしれない。
《楽しみにしています》
「はい、楽しみにしててください。……なんて、年単位で時間かかりそうですけどね」
年単位。
その時、自分は何をしているだろう。
「このあとどうしましょうか。お茶でもしますか? それか夕飯でも……はちょっと早いかな……」
咲良は少し考えてから、緩く首を振った。
《今日はこのまま帰ります》
夕飯はまたの機会に、とは打てなくて画面を見せると、そうですね、と凪が頷く。
頷かれたことに、少しだけ胸が苦しくなった。
「じゃあ、それはまた今度」
優しい笑顔を向けられて居たたまれない気持ちになりながら、咲良はそっと頷いた。




