第五章 小さな一歩 3
アラームより一時間も早く目が覚めた咲良は、二度寝もせずに起き出した。
部屋着のままインスタントのコーンスープをかき混ぜて、壁にかけた服に視線をやる。
淡いローズピンクのアコーディオンスカートに、オフホワイトの七部袖シャツ。襟元の刺繍と控えめな袖のフリルが可愛くて買ったのに、なんとなく仕事には着ていけずに仕舞い込んでいたものだ。
──この服で大丈夫かな
昨夜散々悩んだことを再び浮かべながら、スープに口をつける。
最近は動きやすいとか仕事の邪魔にならないとか、そんな基準でばかり選んでいたからこんな時に着ていける服は多くない。それに気づいたのは昨夜のことだった。
今日は、凪と水族館へ行く。
震えそうな指先で水族館のチケットを差し出した咲良に、凪は小さく息を呑んだ。
《よかったら一緒に行きませんか?》
スマホの画面を表示させると、肩の力を抜いた凪は、「いつにしましょうか?」と目を細めた。
その場で、翌週のお店の定休日に出掛けることに決まった。
待ち合わせは、咲良の最寄り駅の改札に十時半。
少し余裕をみても十時十五分に出れば間に合うと思っていたはずが、その時間には改札に着いてしまった。
それなのに。
「おはようございます」
凪がいた。
改札近くの柱に背を預けて立つ彼は、咲良の到着にすぐに気づいた。
いつもの黒いデイバッグを肩にかけ、白いシャツに黒のデニム。狐面や尻尾のアクセサリーがない以外は、普段とそう変わらない。
見慣れた姿のはずなのに、咲良の鼓動は少しだけ早くなった。
《お待たせしてすみません》
「俺も来たばかりです。それに、まだ待ち合わせ時間にもなってないですよ」
楽しみでつい早めに来てしまって、と少し恥ずかしそうに目を伏せた凪に、咲良は、私もです、と思う。
けれど。
「行きましょうか?」
にこりと笑う凪に鼓動が跳ねて、そのひと言を伝え損ねたまま歩き出した。
水族館までは電車で一時間と少し。
電車の中は、座席が埋まる程度には乗客がおり、なんとなくドアあたりにおさまる。
「着いたら、よかったら先にランチを済ませませんか?」
凪の提案にコクリと頷くと「水族館の中で軽食も食べられるみたいなんですけど、すぐ近くにイタリアンと、海鮮丼のお店と、パンケーキのお店と……あとはファミレスがあるみたいです」とスマホの画面を差し出してくれる。
一緒に顔を寄せて画面を覗き込む。いつもより近い距離に、咲良の呼吸が浅く細くなる。
《凪さんは何が食べたいですか?》
「俺はこの中ならどれでもいいですけど……咲良さんはどうですか?」
咲良も特にこだわりはない。ただ、せっかくなら、ファミレス以外に行ってみたい。
改めて凪のスマホを覗き込む。
パンケーキもいいけれど、ファミレスでの凪の注文を思い返すと、少し物足りなくないだろうかと心配になる。
《私もわりとなんでもいいですが、イタリアンか海鮮ならどちらがいいですか?》
「じゃあ……イタリアンにしましょうか。そのほうがメニューもいろいろあるでしょうし」
目当ての店は駅から歩いて五分ほど。その店の前を走る国道の向こうには今日の目的地である水族館がある。
水族館の背後には海が広がり、時間があれば浜辺を散歩するのも楽しそうだ。
店のドアをくぐると、二組ほど順番待ちの先客がおり、凪と並んで順番待ちの椅子に腰を下ろす。
お待ちの間こちらをどうぞ、とメニューを差し出されてふたりで並んでメニューを覗き込む。
互いの肩がかすかに触れ、咲良は息を詰めた。そっと横目で凪を窺えば、彼はこの距離を気にも留めていないのか、じっとメニューの文字を追っている。
咲良は自分ばかりが意識しているのが恥ずかしくて、スカートを整えるふりで座り直し、凪から少しだけ身を離してメニューを覗き込んだ。
紙面にはパスタだけでなく、ペンネやニョッキ、ピザが並んでいる。アンティパストも充実しており、おいしそうな写真にあれもこれもと目移りしてしまう。
トマトソースは服にはねそうで怖い。かといってペペロンチーノみたいにニンニクがきいているものも、今日はちょっと避けたい。
そんなことを考えながらメニューを見ていると、「失敗した……」と凪が小さく呟いた。どうしたのかと顔を向けると、「ボロネーゼもおいしそうだと思ったんですけど、今日白い服を着てきてしまったので。はねそうじゃないですか」と眉を下げた。
似たようなことを考えていたことに、思わず咲良の口の端が上がる。
《私もトマトソースは避けたほうがいいかなって思っていたところです》
「ですよね」
《ペンネならはねないかもしれないですよ》
「たしかに。……咲良さん、お腹のすき具合どうですか? アンティパストとかピザとかシェアして食べられそうですか?」
《はい、私もいろいろ食べてみたかったので》
「よかった。どれもおいしそうですよね」
そうしてランチの時間は、いつものファミレスのように和やかに過ぎていった。
◇ ◇ ◇
平日の水族館ならすいているだろう。
それは単なる思い込みに過ぎなかった。
カップルや小さな子を連れた家族、遠足の子どもたちで館内は思いのほか賑わっていた。
《はぐれた時のために連絡先を交換しておきませんか?》
この水族館は広い。フロアも複数に別れているし、イルカのスタジアムやウミガメのプールなども点在している。人混みにお互いを見失うほどではないにしても、念のためアプリで連絡くらい取れるようにしておいたほうがいいかもしれない。
そう思って凪に画面を見せた。
そうですね、とすんなり返るだろうと思いきや、凪は視線を落として少し考えると「ちゃんと見ておくから心配しないで大丈夫ですよ」と微笑んだ。
連絡先の交換が必要かも知れないと考えたのは、これが二度目だ。
今日の約束をする時にも、こんなやりとりがあった。
あの時も、凪は咲良の家も美弥の連絡先も知っているから大丈夫だと微笑んでいた。
たしかに広いとはいえ街なかやテーマパークとは違い、お互いを見失ってもなかなか出逢えなくなるというほどのことは起きないだろう。
大丈夫。
そう言われてしまえば、咲良はそれ以上言葉をつなぐこともできず、曖昧に頷くしかない。
(私と連絡先の交換をするの、嫌なのかな)
ネガティブな感情を振り払いながら、大水槽のイワシの群れを見上げる。
まるで大きなひとつの生き物のようにくるくると隊形を変えて泳ぐイワシたちが、青い世界の中で銀色に光って見える。その群れの真ん中を大きなエイが横切れば、さっと群れを分けて、すぐにまたひとつの塊へと戻る。
「大きいですね」
耳元の凪の声に、頷くよりも早く鼓動が跳ねた。
「エイは尻尾の先に毒があるって聞いたことがあるんですけど……飼育員さんは大丈夫なのかな」
いつの間にか水槽の中で、ダイバーの格好をした飼育員が魚に餌をあげ始めていた。その魚の生態についてのアナウンスを聞きながら見上げると、飼育員の近くを何匹かのエイがすり抜けていく。
(飼育員さんがケガをするような心配、ないのかな)
エイの尻尾がダイバーの身体の近くを横切るのを目にして、咲良は少し心配になる。
「うっかり傷付けてしまうことはないんですかね」
凪の独りごちるような声に顔を上げた咲良は、再び水の中を見つめた。
水槽の中にはエイだけでなく、大きなサメも悠々と泳いでいる。
(怖くないのかな。でも仕事にしてるくらいだから、魚が好きなんだろうな……)
ふと顔をあげると、凪はまだじっと魚たちを眺めていた。咲良の視線に気づくと、「行きましょうか」と柔らかな声音で尋ね、促すように咲良の腕を押した。
周囲には手を繋ぐカップルも多い。時折囃すような子ども達もいるけれど、二人の世界に入っている男女は気にも留めていない。
自分たちは、どんな風に見えているだろう。
手をとることもない。行儀良く身を離して水槽の前に立つふたりは、せいぜい友達か兄妹くらいだろうか。
咲良は小さく息をついて、クラゲの海を見つめた。
意志を持って泳いでいるというよりは、水の流れに身を任せ、ふわりふわりと漂っている。
なんともいえず癒やされる気がして、肩の力が脱けていく。時間が経つのも忘れそうだ。
ふと気づくと、凪は少し難しい顔で、顎に指先をあてて考え込むようにクラゲを見ていた。
《どうかしましたか?》
「あ、いえ……」
少し気まずそうに視線を泳がせた凪は、言いにくそうに口を開く。
「この動きを再現できるかな、とか……海の中を歩く仮想体験が作れたら楽しそうだなとか考えてしまって」
その答えに咲良は小さく笑う。そしてすぐに再びスマホに文字を打った。
《素敵ですね。私も海の中を歩いてみたいです》
「ですよね。俺もスキューバはやったことないけど、バーチャルなら誰でも行けるから……」
そう言って、凪は再び水槽に視線を向ける。
同じ水槽を眺めているのに、思い浮かべることがこんなに違う。きっと、今ここでクラゲを見ている人たちも皆、思い浮かべていることはバラバラだ。
咲良はふと、Lynelでも、同じ投稿に対して正反対の感想や解釈を目にすることもあったな、と思いだす。
あまりに極端なものには眉をしかめたものの、思わぬ解釈に触れて楽しくなったこともあった。
(凪さんから見た世界は、どんな風なんだろう……私は、どう見えているんだろう)
「どうかしましたか?」
小首を傾げる凪に首を振って《もし凪さんがそれを作ったら、ぜひ体験したいです》とだけ伝えた。嘘ではない本心。でも、今伝えたかった言葉とは少しだけ違う。
声があったら、訊いてみただろうか。
考えかけて、やっぱり訊けないだろうと思う。声があったって変わらない。
咲良は再び流れに身を任せる白く澄んだ姿を見つめた。クラゲたちは相変わらず、ゆらりゆらりと漂っていた。
二時間ほど館内を見て回り、イルカスタジアムへと足を向けた。ショーの開演間近で観客席は八割方埋まっている。
前方二列は綺麗に空いているけれど、それは水しぶきがかかる可能性のある席だというので、水がかからなそうな中央あたりの列にふたり並んで腰をおろした。
館内と違い、屋外にあるプールは少し蒸し暑い。
「なにか飲み物でも買ってきましょうか。何がいいですか?」
《無糖のお茶ならなんでもいいです》
咲良のスマホを覗き込んだ凪は、頷くと売店へと向かっていった。
一列前には咲良と同じ年くらいのカップルが楽しそうに身を寄せて、水族館のプログラムを見つめている。
男性の軽口に笑い声をあげた彼女が、パシパシと彼の肩を叩いていた。
「お待たせしました」
声と共に戻ってきた凪が咲良の隣に座った。ペットボトルを二本掲げて「どっちにしますか?」と訊いてくる。
アイスティーとほうじ茶だ。
凪はどちらがいいのか、迷いながら視線をやれば、「俺はどっちでもいいように買ってきたから、好きなほうを選んで大丈夫ですよ」とにこりと微笑む。
安堵してほうじ茶に手を伸ばすと、どうぞと差し出された。
すぐに財布を取り出そうとした咲良の手にそっと、凪の手が重なる。
「今日は俺が出すって言ったでしょう?」
咲良はすぐにスマホを取り出すと《ありがとうございます》と打ち込んだ。
「どういたしまして」
今日のランチもお金を払ったのは凪だった。恐縮する咲良に、水族館のチケット代を出してもらったから、と言われたけれど、そうでなくても凪と一緒にいて咲良がお金を出したことは一度もない。いつもそれなりの理由を言われて、そのままご馳走になってしまう流れだ。
(次は私が出そう。今日は夕飯まで一緒にいられるのかな……)
「あ、始まるみたい!」
前に座る彼女の弾んだ声に顔を上げると、ステージにウェットスーツを纏った男女が現れ、三頭のイルカが揃って高くジャンプする。
スタジアムから、わっと歓声があがった。




