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声をなくした花屋と、言葉を捨てたマイム  作者: 稀葉


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第五章 小さな一歩 1

あの夜から一週間あまり。ようやく店と共に咲良の日常が再開した。


店頭に鉢を並べていく手を止めて、広場を見遣る。

初夏の陽射しに照らされた桜は、新緑へと装いを変えていた。

その木の下に、見たい姿はいない。

数日前にも顔を合わせたばかりだというのに、長く会っていないように感じてしまう自分に淡く苦笑を浮かべた咲良は、ピンクや水色の紫陽花の鉢を並べていく。


母の日にも人気の花ゆえ店頭には早々に並ぶ紫陽花も、実際に咲くのは六月に入ってからだ。

生家の庭の紫陽花を、懐かしく思い出す。

火事の後、一度だけ訪れたそこは、焼け落ちた建物は既に片付けられていたものの、まだあの日の焦げた臭いがそこかしこに漂っている気がした。

それなのに、庭の池や紫陽花は懐かしい姿のままで、かえって胸が苦しくなった。


今年もあの紫陽花たちは、花を咲かせるんだろうか。


無意識に手を止めて、懐かしい風景を思い描く咲良の背後から、ふいに声がかかった。

 

「こんにちは」

 

肩をビクりと揺らして、咲良は咄嗟に息を詰める。

急いで振り返って声の主を見ると、紺の作務衣を纏った白髪の男が歩み寄ってくる。近くの蕎麦屋の店主だった。


立ち上がってぺこりと頭を下げる咲良に、「オーナーさんはいる?」と言われ店内を指し示すと、すぐに美弥が顔を覗かせた。


「松浦さん! このたびはお騒がせして申し訳ありませんでした」


「いえいえ、大変でしたねぇ」

 

美弥と店主とが話すのを横目に、鉢に意識を戻す。


咲良の心臓は、まだ先ほど声をかけられた驚きの余韻に嫌な音をたてていた。それをゆっくりの深呼吸で宥めてから、再び作業を再開する。


店で暴れた男はしばらく警察に拘留される。そう教えてくれたのは、現場検証に来た女性の警察官だった。器物破損とか傷害とかいろいろな罪に問えると言っていたけれど、何よりあの男が当分咲良の前に現れる心配がないということに安堵した。

それでも、こうしてふいに背後から男性に声を掛けられると、咲良の身は竦んでしまう。


大丈夫。


言い聞かせて、もう一度広場を見遣る。


今日は凪は来るだろうか。



現場検証が行われたのは、あの夜から四日後のことだった。

倒れた水桶も、床に散らばる萎れてしまった花もそのままにされた店内で、あの夜の出来事をなぞるように説明した。

事情聴取同様、凪の立ち会いは咲良とは別々だったから、そこで顔を合わせることはなかった。けれど、その後、美弥と店の片付けを始めた頃、彼が姿を現した。

凪の姿を見た途端、咲良の心臓は持ち主の自覚よりも早く跳ね出した。

 

彼の頬はうっすらと青紫に腫れて痛々しく映ったのに、「もう腫れもひいてきたし、なんともないですよ。それより、咲良さんは大丈夫ですか?」と気遣ってくれた。

その優しさにも、胸がきゅっと苦しくなった。



咲良は立ち上がって、エプロンの裾をそっとはらう。そのままそろりとポケットを撫でた。

ポケットに入っているのは、水族館のチケットだった。

あの夜、嵐のような出来事で、凪がくれたチケットは水浸しになってちぎれてしまった。だから、今ここにあるのは咲良が買ったものだ。

凪を誘いたい。そう思って買ったのに、咲良はまだ迷っていた。


あの夜、ファミレスを出る頃には空は白んでいた。

咲良は火事の出来事を、凪はLynel(リネル)のことを話して、ほんの少し心が近づいた気がした。


気付けば凪のことを考えている。店に立てば、広場に探すのは彼の姿だ。

それでも、この想いに名前をつけてしまうのは怖い。

店員と常連客。友達とまではいかない知り合い。それなら傷つくことも壊れることもない距離だ。


彼女はいるんですか、とか、綾華さんとはその後会ったんですか、とか、気になって仕方がないくせに訊くことはできなかった。

決定的なことを知ることに怖じ気づいて、それなのにチケットなんて買ってみたりして、ちぐはぐだと思う。

持て余す気持ちを押し出すように、細く息を吐く。


「さくちゃん、そういえばね」

 

店内に入ると、美弥が「見て見て」とスマホを差し出してきた。


「ほら」


画面に表示されていたのは、紫陽花の蕾だった。

植木鉢に植えられた小さな紫陽花の、心元ないほどに小さな蕾たち。


吹喜(ふぶき)の庭の紫陽花、いくつか挿し木にしてみたの。そしたらね、今年ようやく蕾がついたんだよ」

 

あの庭の紫陽花。


もう一度画面に視線を落とす。


あの庭から切り離された紫陽花に、蕾がついた。

それだけで、なんだか涙がでそうな気がして奥歯を噛みしめた。


「咲いたら見においでよ。美奈の好きだった『藍姫(あいひめ)』と『紅剣(べにつるぎ)』、きっと綺麗に咲くよ」


藍色の菱が美しい藍姫と、濃いピンクに縁取られた白い紫陽花は、母が特に好んだ紫陽花だった。


いつかの日、「ほら、もう咲きそうだね」と笑った母の笑顔が鮮やかに脳裏に蘇る。

頷く咲良に、美弥はいつかの母のような眼差しを向けた。

 

凪を、誘おう。

 

咲良は心に決めて、もう一度そろりとエプロンのポケットを撫でた。


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