第一章 サクラとキツネ 2
咲良はマーガレットを抱えながら、店の前の広場を見遣る。
朝見た空色の帽子の群れはとうに消え、代わりに通り過ぎる人々の影が、長く伸びていた。
マーガレットの花がらを、鋏で丁寧に摘んでいく。
咲き終わって萎んだ花をそのままにしておくと、株が弱ってしまうからだ。
最初の頃はどこをどう摘めばいいのかまったくわからなかったこの作業も、今ではためらいなく鋏を入れることができるようになった。
落ちてきた髪を耳に掛ける。
空気が一瞬止まった気がして、ふと顔をあげた。
一時姿を消していた狐面の男が、いつのまにか桜の下でパフォーマンスを再開していた。
白いはずのシャツが、夕焼け色に染まっている。
朝と変わらず、彼は全身で語る。指先が、視線が、足の運びが雄弁に訴える。
咲良の言葉は、文字しかない。
花に助けられながら、ようやく客に差し出すものでしかない。
この店は、『言葉の暴力』から守られた安全な場所だ。
それなのに、彼のパフォーマンスを見ていると、守られているのか閉じ込められているのか分からなくなって、胸がざわつく。
沈黙しか持たない彼のほうが、ずっと自由に見えた。
彼の、糸に操られているような、小さく刻んだ動作から目が離せなくなる。
指からのびた糸の先、彼の頭上でピンクの風船が揺れていた。
(今日は本当の風船なんだ)
母親の手を振りほどいたツインテールの女の子が彼の傍に駆け寄って、首を傾げた。
彼女の仕草を真似るように、狐面もこてりと傾く。
その仕草が面白かったのか女の子が体ごと傾けると、彼も同じように体を傾ける。
途端に、女の子のはじけた笑い声が響いた。
彼が風船を差し出す。
おそるおそる伸びた小さな手は糸の先を掴み「ママ-! もらった!」と駆け出した。
狐面の彼が、その背中にマリオネットのようにぎこちなく手を振る。
「きつねさん、ありがとう!」
傾きかけた春の陽が、女の子の長い影を映す。
心和む光景。
誰もが笑顔になっている。彼も、女の子も、その母親も。
声を使わずに、いともたやすく。
咲良の胸の奥が、きゅうと痛む。
ガラスケースの中からただ眺めているだけの、同じ世界には入っていけない自分に気づいてしまったから。
彼が店を訪れたのは、広場が夕闇に包まれた頃のことだ。




