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声をなくした花屋と、言葉を捨てたマイム  作者: 稀葉


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第四章 キツネの尾 3

 視界が滲む。

 男の生温かい息づかいを耳元に感じ、誰か助けてと繰り返しても、ひとつも音にならない。

 音を搾り出そうとする喉が痛んで、息が詰まりそうだ。

 

 シャッターの甲高い金属音が響き、男が動きを止めた。

 

 「咲良っ!」

 

 凪が、立っていた。

 

 唇が助けてとかたちづくるより早く、レジ台を飛び越えた凪が男を強く突き飛ばして咲良から引き離した。

 咲良の前に立ちはだかる凪の背中。黒いTシャツの肩が荒く上下している。それがそのまま、凪の怒りを表しているように見えた。

 

「なんだお前はっ」

 

 言いながら男が凪に掴みかかる。

 もみ合いになり、レジ台周りに仕舞ってあった花桶が倒れ、大量の水と花が床に広がった。

 その花を踏みにじって凪に馬乗りになった男は、拳を振り上げる。

 殴りつける鈍い音が響き、咲良は手近にあった値札棒の束を掴んで駆け寄ると、男に向かって何度も叩きつけた。

  

「……っ! くっ、しゃべれもしない女はおとなしくしとけばいいんだよっ!」

 

 言葉の刃に値札棒を指が白くなるほど握りしめた。

 悔しいのに、男の剣幕に身じろぐこともできず、咲良は固まってしまった。

  

 咲良に掴みかかろうとした男の足を、凪が素早く払う。

 濡れた床に倒れ込んだスーツの袖を凪がねじり上げた。

 無残に千切れた花片が散乱する床で、男の唸るような声が響いた。


 その時、「大丈夫ですかっ!?」と声がかかった。

 

 警察官が、店の中へと入ってきた。

 

 

 

 パトカーで移動し、警察署で事情聴取を受けた。

 『蒼い森』のオーナーである美弥も呼ばれ、三人で建物を出る頃には深夜の一時をまわっていた。

 煌々と窓の明かりが漏れる警察署とは裏腹に、街はシンと寝静まっていた。

 署の前の道路を時折走り抜ける車の音だけが、やけに大きく響く。

 

「久田さん、本当にありがとうございました。あなたが駆けつけてくれなければこの子はどうなっていたことか……」


 疲れ果てた声音でお礼を言った美弥が、深々と頭を下げた。

 咲良も一緒に頭を下げる。

 

 男も含め、全員が別々のパトカーで移動し、別室で話を訊かれた。

 そのため、咲良は凪にお礼を言うどころか、ろくに言葉を交わせなかった。

 

「いえ、俺は……。咲良さんは、ケガ、してないですか?」

 

 そう尋ねる凪のほうが、頬を腫らして痛々しい。

 咲良はふるりと首を振る。

 この騒ぎで、咲良のスマホは画面がひび割れ、使い物にならなくなっていた。

 

 あのスマホは、火事の夜、咲良が持ち出せた唯一のものだった。

 父や母とのメッセージのやりとりも、笑い合った写真もたくさん納められていた。

 

 そのうえ、壊れたスマホは証拠として押収されてしまい、今咲良は言葉を紡ぐことすらできない。

 スマホがないだけで、《ありがとう》のひとつも伝えられない。

 

 咲良は声だけでなく、言葉そのものを奪われたような喪失感に包まれる。

 役立たずの喉を覆った掌は、かすかに震えていた。

 

「二人とも家まで送るね。久田さんはどちらに住んでいるんですか?」

 

 凪が答えた駅は、いつもの広場の隣の駅だった。

 

「俺はタクシーでも拾って帰るから大丈夫です。それより、咲良さんは早く帰ってゆっくりしたほうがいいでしょうから」

 

 こんな時にまで咲良を優先して考えてくれる凪の言葉に、今日のことですっかり萎んでしまった咲良の心が少しだけ癒やされる。

 

「あー……あの、久田さん。本当に申し訳ないんだけど、咲良も一緒に乗せてってもらえないでしょうか」

「はい、もちろん大丈夫です」

 

 美弥は凪にお礼を言うと、「さくちゃん」とこちらに向き直った。

 

「さくちゃんは、とりあえず明日から一週間お休み! 現場検証が済むまでお店の片付けもできないしね。あ、でも新しい携帯を契約次第、連絡はして?」

 

 いろいろなものが散乱した店内の惨状が思い出される。

 検証が終わればすぐに片付けをするはずだ。

 

 咲良がゆるゆると首を振ると、「だぁめ! これはオーナー命令です」と美弥が宣言した。

 

「まあ休みって言っても、現場検証の立ち会いには呼ばれるって言われたでしょう? それに……」

 

 美弥は咲良にだけ聞こえるように、「寝不足の原因、久田さんなんじゃないの?」と囁いて、茶目っ気たっぷりな笑みを浮かべた。

 

 途端に息を詰まらせた咲良の頬が熱を帯びる。

 夜目にも顔の赤さが見えてしまう気がして、咲良はそっと俯いた。

 肯定したも同然の様子に、美弥はそっと微笑んで咲良の背中を優しく叩く。

 

「久田さん、また改めてちゃんとお礼をさせてください。とりあえず今夜は咲良のこと、よろしくお願いします」

「はい、責任持って送っていきます」

 

 まっすぐな目で答えた凪に、美弥は安心したように頷いた。


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