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声をなくした花屋と、言葉を捨てたマイム  作者: 稀葉


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第三章 紫陽花の5

凪が訪れたのは、子どもたちの帰宅を促す夕焼けチャイムが鳴り始めた頃だった。

夕陽が作る長い影を見つめながら、今日も来なかった、と咲良が小さく息を吐いた、その瞬間、「こんにちは」と声が掛かった。


顔をあげると、凪がいた。


いつもと違うスーツ姿。

ノーネクタイのままシャツの上のボタンを二つ開けている。

髪をきちんと整えただけで、これほど印象が違うのかと思うほどだった。


思わず固まった咲良は、ゆっくりとエプロンのポケットに触れた。

口をはくりと動かした瞬間、声が出ないことを思い出す。

 

「久しぶり……っていうのも変ですかね」

 

咲良は急いでホワイトボードを取り、《お仕事帰りですか?》と綴った。

 

「はい。昔馴染みの依頼で、断れなくて」

 

疲れた笑みを浮かべながら、凪はいつものように切り花を見渡す。


 ”昔馴染み”──その言葉に、Lynel(リネル)の文字が脳裏をよぎり、咲良は次の言葉を失った。


「そっか……もう、そういう時期なんですね」


カーネーションに視線を止めた凪が、淡く微笑む。


《カーネーションにしますか?》


「うーん。でもそれは、まだちょっと早いかな……どうしよう。咲良さんは、どれがいいと思いますか?」

 

《明日、使いますか?》

 

「はい。明日は午前中に来ようと思ってて」

 

咲良の視線が、綾華に渡したのと同じトルコキキョウで止まる。

けれど、同じ花を勧めたくなくて、グロリオサを差した。

彼岸花に似たその花は、狐面によく合いそうに思えた。

 

「いいですね。狐に合いそうだ。ありがとうございます。じゃあ、3本ください」

 

 凪が同じ感想を口にした瞬間、咲良の胸の奥がわずかに温かくなった。

 一本ずつ丁寧に包みながら、その温もりをそっと確かめる。


「咲良さん」

 

名前を呼ばれて、咲良の肩が小さくはねた。

 

「すみません、驚かせるつもりはなかったんですけど。これ」

 

差し出されたのは水族館のチケットだった。

 

「二枚あるんです。よかったら……行きませんか?」

 

少し前の咲良ならば、迷わず頷いていたはずだ。

けれど、今は、はいと答えられない。


Lynel(リネル)のこと。

綾華のこと。


それらすべてが重石のように心に沈み、咲良の動きを止めていた。


「あ、すみません! 俺とじゃなくても、よかったら友達と行ってきてください。こないだせっかくの誕生日に、ファミレスしか行けなかったし」


迷ったまま固まった咲良に、凪が慌てて言い募る。


咲良はポケットに手を入れ、名刺を取り出して差し出した。


今度は凪の方が動きを止めた。

苦いものを噛みしめるように名刺を見つめ、「綾華が……来たんですか」と呟く。 

 

(綾華って、呼ぶんだ)

 

胸に広がったのは、言葉にならない落胆。

水に落ちた墨のように、じわりと心を澱ませる。

 

「これ、どうぞ。よかったら……楽しんできてください」

 

名刺を受け取り、代わりにチケットを差し出す凪の目を、咲良は見ることができなかった。

 

翌日、凪が姿は広場になかった。


彼の不在を寂しいと感じた瞬間、咲良は気付く。

その想いが、心の奥で静かに根を張りはじめていることに。


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