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声をなくした花屋と、言葉を捨てたマイム  作者: 稀葉


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第三章 紫陽花の庭 3

シャワーを浴びてすっきりしたはずなのに、テーブルの上の名刺が視界に入り、咲良は髪を拭く手を止めた。

 

──これを渡してもらえないかしら?

 

綾華の声が耳の奥で蘇る。


凪に渡さなければいけないのに、気付けばその名刺を家まで持ち帰っていた。

 

(綺麗な人だったな)


ITコンサルタント──それが彼女の肩書き。


指先で名刺の冷たさをなぞる。

ロゴには、紫の小花を菱形に並べたマークが光っていた。


ふと、雨の匂いがした気がした。


目を閉じると、丸い飛び石がゆるやかに続く庭が浮かんだ。

池には鯉が泳ぎ、小学生の頃にすくった金魚も、いつしか鯉と見紛うほどに育っている。


四季折々の花が彩るその庭で、いちばん多く咲いていたのは山紫陽花だった。


西洋紫陽花よりもこじんまりとしていたものの、色も見た目も様々で、六月になると庭のいたるところで花を咲かせる。

この紫陽花の庭を目当てに来る宿泊客も多い宿だった。

 

咲良は一人っ子だったから、いつか自分がこの旅館を継ぐのだろうと漠然と思いながら育ったし、それに対する反発心はなかった。

咲良もまた、その庭が大好きだったからだ。


それでも、一度くらいはひとり暮らしを経験したくて、大学は実家から少し離れた東京の大学を選んだ。


二年前──大学に入って最初の六月。

ひとり暮らし開始三ヶ月、少しホームシックになった咲良は、成人式の前撮りを口実に実家へ帰省した。


例年通り、忙しい時期ではあったけれど、両親と晴れ着で撮影をして、久しぶりに三人で食卓を囲んだ夜、それは起きた。

 

「明日の朝ご飯は手伝わなくていいから、ゆっくり寝てなさい」

 

「いいの? やったぁ」


それが、母と交わした最後の会話だった。


深夜。寝苦しさに目を覚ました。

直後、けたたましい報知器の音が鳴り響き、人の悲鳴と足音、怒号が混ざり合った。


パチパチとはぜる音、焦げる匂い。

視界はすぐに煙に閉ざされ、息を吸うたびに喉が焼けた。


這い出すようにたどり着いた庭は、燃えさかる炎でオレンジ色に照らし出されていた。


外では、淡い雨が降り始めていた。

その匂いも、焦げつく匂いに塗りつぶされる。


そこで、記憶が途切れた。

 

 ──次に目を覚ました時、そこは病院のベッドだった。


最初に視界に入ったのは、白い天井。


首を巡らすと、目を真っ赤にした美弥が、咲良の名前を呼んではらはらと新たな涙をこぼした。


どこかで、何かが焦げる匂いがしている。


それを訴えようとした瞬間、喉に激しい痛みが走って、息を止めた。


気付けば体中が痛い。

特に首から右腕にかけて、引きつるようにひりつく痛みが酷くて混乱する。


火事が起きた、ということを思いだし、両親の無事を確かめようにも声も出ない。

ただ、傍らで泣き続ける美弥の姿が答えだと、うっすらと心のどこかで理解していた。

 

どう心の整理をつけていいのかわからないまま、病室での毎日を過ごしていた。


安否を心配する友達のメッセージに、とりあえず無事であることを返す。

それからいつものように、見るともなしにSNSを開いた。

 

 ──吹喜(ふぶき)って結構な老舗旅館だろ。老朽化で漏電か?

 

 ──消防点検してなかったんじゃね

 

 ──経営者、逃げ遅れたんだって。自業自得じゃない?


スマホの画面に、誰とも知れない言葉が流れ続ける。


テレビからも、防火設備の不備の可能性が指摘されています、などと無責任な言葉が溢れていた。

可能性の言葉はSNSに放流された途端、断定となる。

切り裂くような酷い言葉は止まらずに氾濫していく。


──客に死人でなかったの奇跡だな


──経営者の娘も助かったらしいじゃん


──保険金目当てだったりして


見なければいい、と頭の隅で警鐘が響く。

それでも、咲良は画面を閉じることができなかった。


数週間後、客の寝タバコが原因だったと、小さく報道された。

けれど、画面の向こうで火事のことを話す人は、もうどこにもいなかった。


あの日、咲良が失ったのは声だけではない。

世界を信じる力も、一緒に燃えてしまった。



膝を抱えるようにして、咲良は顔を伏せた。


あの時、好き勝手な言葉が画面に躍り、溢れていったのは──Lynel(リネル)


友達だと思っていたアカウントが、無責任な言葉を拡散していくのを、ただ見ているしかなかった。


Lynel(リネル)を作った人──凪が悪いわけではない。

わかっているのに、あれを凪が作ったという事実がうまく飲み込めない。

 

凪に、会いたい。

けれど、今は会いたくない。


朝が来るたび、夢ではなく現実だと知るその瞬間に、胸が沈んだ日々。


揺れる心を持て余したまま、咲良は顔を上げられずにいた。


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