第三章 紫陽花の庭 2
少し前までたわわな薄紅を揺らした枝先も、若い緑の葉が芽吹きさわさわと風を受けている。
店内もスノーボールやハナリョウブなど、この季節ならではのものが増えてきた。
あと半月あまりで、花屋の忙しい日ランキングに入る『母の日』がやってくる。
母の日のある週末は、美弥とふたり態勢で一日中アレンジや花束を作り、お小遣いを握りしめてくる小さなお客様の対応に追われることとなる。
(母の日か……)
小さく息を吐いた咲良の耳に、カツカツと小気味よい音が響いた。
顔を上げると、高いヒールの靴音に鈍色のスーツを纏った女性が店に入ってきた。
すっと背筋を伸ばし、赤い口紅が嫌みなく見える彼女は、一瞬広場を見回してから「すみません」と口を開いた。
「五千円くらいで、花束をお願いします」
《どなたに贈られますか?》
「……筆談なんですね」
咲良が頷くと、彼女はすぐに柔らかく微笑んだ。
「母の誕生日に贈るんです。母の日が近いのでカーネーションはなしで。あとはお任せします」
ほんの少しおどけたように肩を竦めた彼女は、ふと広場の方へ視線を向けた。
探すようなその仕草が、どこか印象に残る。
予算が五千円ならば、それなりに見栄えのする花束が組める。
今日入ってきたばかりの、白にピンクの縁のトルコキキョウなら品良くお祝いの雰囲気を演出するのによさそうだ。
咲良は配色を考えながら、様々な花桶に手を伸ばす。
組み上げた束を見せると、彼女は満足げに頷いた。
ホッとしながら茎先を切り揃え、丁寧に包んでいく。
「ナギさん……このあたりで大道芸をしている男性がいると聞いたんだけれど」
その名を聞いた瞬間、咲良の思考が止まった。
けれど彼女は、咲良の返事を待つことなく言葉を重ねていく。
「Lynel、ご存じ? きっとあなたも使っていると思うけれど、……あれを作った人なの」
Lynel。
それは、咲良が中学に上がる頃に広まり始めたSNSアプリだ。
気軽に思ったことを投稿し、不特定多数の知らない誰かとも情報を共有できる。
若者ならば誰もが使っていると言って過言ではないアプリだ。
(あれを作ったのが……凪さんなの?)
「こんなところでお遊戯なんてしている場合じゃないのに……あの人、いったい何を考えているのかしら」
その声音は、純粋な敬意にも、軽い嘆きにも聞こえた。
咲良はそっとリボンを取り、手の中で結び目を作る。
彼女が、本当は花を買いに来たわけではないことはもうわかっていた。
でも、花束はきちんと仕上げなくてはいけない。
「ごめんなさい。あなたには関係ない話だったわね」
綾華はそう言って、少し照れたように笑った。
けれど次の瞬間、咲良の作った花束を見つめ、まっすぐな声を落とした。
「本当に綺麗。センスが良くて羨ましいわ」
嫌みのない、心からの感嘆の声。
けれど咲良はうまく笑えず、小さく会釈だけをした。
会計を済ませた彼女が、綺麗に整えられた爪先で名刺を差し出した。
一ノ瀬 綾華。
咲良は気後れしながら、彩りひとつない荒れた手でその名刺を受け取った。
「突然こんなお願いをしてごめんなさい。彼──久田凪。もし見かけたら、これを渡してもらえないかしら?」
メールでも電話でも全然掴まらないのよ、と途方にくれたように言った綾華に、咲良は名刺を見つめながら頷くのが精一杯だった。
「綺麗なお花をありがとう」
隙のない笑みを浮かべた彼女の靴音が遠ざかっていく。
お遊戯なんかじゃない。
喉の奥で言葉が形になりかけて、止まった。
──ならなくて、よかった。
咲良は、綾華と同じように凪の姿のない広場を見遣った。




