第7話 悪意の襲撃
レイス監獄は辺り一面を海に囲まれた小さな孤島に築かれた天然の監獄だ。
緋雨が降り止まなくなってから百年。
雨に触れれば正気を蝕まれるとまで言われ、今では生身で外を歩く者は誰一人いない。
かつて青かった海も、いまや雨の影響で朱に濁り、緋海と呼ばれている。
人体への有害性が疑われ、海路で逃げ出そうと試みる者も皆無だ。
一般的な移動手段になりつつある飛空艇でもあれば、別の大陸へと逃亡できるだろうが――罪人が飛空艇を持っているはずもない。
(こんな辺境に外部からの攻撃――あり得るのか?)
家族だったメグを失い、信じていたレイガに裏切られ、死んでもいいと思っていたのに。
(俺を殺しに来た女――ニアと言ったか。
奴隷契約したせいか、なんだか今すぐ死ぬのも馬鹿らしい気がしてきた)
いっそここで命を落としてもいい――そう割り切れていたはずの人生に、突然レイガを殺せるかもしれないという可能性が生まれた。
その一点だけで、前に進む理由ができてしまった。
けれどアッシュ自身は、その変化に気付いていない。
停滞していた未来が、ふと動き出した。
忘れていた希望をほんの少し思い出してしまったことに、柄にもなく高揚しているのだから。
「ほ、砲撃ですよ今の!?」
「――ちっ、鍵を渡しなさい、早く!」
ニアが舌打ちし、看守の腰に下がる鍵束を乱暴に引ったくる。
尻もちをついた看守へ詰め寄り、「どれよっ」と鍵を探り始める。
「そ、その、大きな……頭が錆びている……ああ、どうしたら、何が起きてるんだ……!?」
「落ち着きなさい、見苦しい――相手が誰だろうと、やるべきことを成すだけよ。ええっと、この鍵は……」
「貸せ」
まごまごしているニアの手から、アッシュは鍵束をひょいと奪った。
五十本以上ある鍵の中から、迷いなく“前から十四番目”を引き抜き、牢の外側から鍵穴へ差し込む。
小気味よい音がして、錠が外れた。
「は、灰被り……意外とやるじゃない」
「……ふん、早く指示したらどうだ、ご主人様よ」
毎日の見回りで、嫌でも鍵の順番は覚えてしまう。
種明かしは後だ。今は一刻も早くここから脱出する方が先決だ。
「わ、分かってるわよ。
灰被りなんかに言われなくたって!」
顔を真っ赤にしたニアが指を突き出し、声を張る。
「目標は監獄の外、私の飛空艇があるわ。そこへ向かって離脱!
正体不明の敵に対しては……ええと、あれよ、その、」
「――警戒を厳となせ、か?」
「そ、そうそれよ! 先に言うなんて、気の利かない奴隷ね!!
看守、アンタはお仲間と合流して状況を打開しなさい!」
「は、はいい!!」
地面に座り込んで呆けていた看守は、名を呼ばれた途端、弾かれたように立ち上がり、駆け出した――が、数歩でぴたりと止まった。
「え、ええと……ど、どうして、他の罪人も出てますが……!?」
アッシュが視線を向けると、等間隔に並ぶカンテラの灯りに照らされ、十人以上の人影がふらつきながら通路へ出て来ていた。
どの顔にも生気がない。
足取りは緩慢で、こちらを見るというより、向いているだけのような虚ろさだ。
「……魔術にかかっているのか」
広範囲の精神干渉――だが魔術を扱うには、人型駆動汎用兵器『ピクシーフレーム:ウィザード』に搭乗する必要がある。
それでも、これほどの人数を操るなど騎士団でも見たことがない魔術だ。
「特殊なピクシーフレームが近くにいるってのか……?」
アッシュの独白に、先ほどの仕返しと言わんばかりに、ニアがふむっとした微笑を浮かべる。
「ぬふふ~、ずっと監獄にいたんじゃ何も知らないでしょうね。
神・摸倣駆動兵器『フェアリーフレーム』――しかないじゃない」
ニアがスレンダーな胸をこれでもかと張る。
メグとは真逆のタイプだな、とアッシュはそっと視線を逸らし、戦いやすい姿勢を整える。
逃走ルートはこの一年で既に出来上がっている。
「ちょっと、何か言い返しなさいよ!」
「こっちだ――」
「え……ひゃっ!?」
向かいの牢のオッサンが、突然鉄格子を押し広げ、ニアへと飛びかかってきた。
毎日悪態ばかりの厄介者だ。
――しかし。
「フッ」
アッシュは動じることなく、勢いそのままのオッサンへ右ストレートを叩き込み、そのまま戻すように牢へ放り込んだ。
理由は分からないが、腕力だけで檻を開けたらしい。
目だけは完全に死んでいる。
「行くぞ、ご主人様」
「え、ええ……って灰被り、命令するのは私よ……!」
抗議を聞く気もないというように、アッシュは罪人たちの群れへ躊躇なく踏み込む。
その口元に、いつの間にか小さな笑みが浮かんでいた。
――向かいの親父は、いつか一発殴ってやりたいと思っていたんだ。
【カクヨム】
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