黒猫とその人はやって来る 3
「おーい、大丈夫かぁ?」
その声と顔に掛かる煙に我に帰る私。顔の近くにある煙草と眼鏡と瞳。そして、竹刀の入った私の竹刀袋を力強く抑える腕。私がその竹刀袋に、部活で鍛えた両腕で、かなりの力を込めて入るのに、その人の片手はぴくりとも動かない。そう冷静に分析できるほど、私は正気に戻っていた。
「ごめんなさい!」
私は何をしてしまったんだ。会ったばかりの人に殴り掛かるなんて!この人じゃなければ怪我をしていたかも知れない。そんな私を優しい眼で見ている真打さん。その別段怒っていない表情に、余計、穴が合ったら入りたくなってしまう。
「ナナ君。具合は大丈夫かい?我輩が一応、周囲の瘴気は祓って措いたのだが…」
ランポさんに言われて気付く寒気と倦怠感。でも、今は羞恥心の方が勝ってる。
「はい、大丈夫です。すいません」
頭を下げたら、もう上げられない。このまま、土下座をしてしまいたいぐらい。
「まぁ、今はそんな事をしてられないから言うぞ。ランポから離れるな。オッケイ?だぁー、リュウさんとカルも連れて来るんだったー」
真打さんからの愚痴混じりの指示に頷くと、真打さんがグランドの方へ駆けていく。
「あっ、ちょっとナナ君。我輩達はここで、待っていようって」
少し興味がある。少しだけじゃないから、真打さんの指示通りにランポさんと離れないように片手に抱え、竹刀を持ったまま駆け出したのだけど。
真打さんには直ぐに追い付けた。剣道場の正面、グランドに入った所で、女性の人と止まっていたから。グランドに溢れる異形な者達を眺めていたから。
「駄目だね。携帯通じないよ。完璧に私たち閉じ込められちゃたね?正に壺の中に放り込まれたムシだね」
場違いにもおっとりと笑っている女性。凄く綺麗だと思う。服装は真打さんと同じ黒づくしの作業着で色気の無い物だけど、整った目鼻に風にそよぐ長い黒髪。
そんな美女と真打さんの後ろに広がるのは、地獄絵図。鬼らしきものも居れば、蛇らしきものも居る。その姿からは何か判別出来ず、ただ生きて無いという事が分かるだけのもの。それらが一応になって殴り合い、噛み付き合い、身体が千切れても構わず、咆哮しながら殺しあっている光景。普通の人より色んなものを見て来た私でもこんなおぞましいものは見た事がない。
ランポさんがさっき、瘴気を祓ったと言った。私の曖昧なオカルト知識では、瘴気は地獄に満ちる空気。人の理性を狂わせる。それが今、この場に溢れて居ると言うことなのだろうか?
「ありゃ、人避けの陣を張っておいた筈なんだけどな?」
「あっ、隠れてろって、言ってなかった…よな」
女性が私を見つけ、真打さんが私を捉えて眉をしかめる。
「あの、今何が起きてるんですか?」
言い訳がましく、腰の位置に居たランポさんを少し上に抱え上げ、約束を守っている事をアピールしてから真打さんに訊ねる。
「中々、強かな子だ」
笑いながら皮肉を言う真打さん。
「ここを片付けたら、話してやるから絶対に動くなよ。社長、この場を任せます」
そう言い、手を横に伸ばす真打さん。その手の先から消えて行く。
再び現れる手と握られている長弓。それを社長と呼ばれた女の人に渡す。
「エ~、丸投げですか~?まぁ、良いけどね」
その真打さんの所業に眼を見張っていた私の心を穏やかにするような笑顔を向けながら、弓を受け取る女性。私に背を向け、綺麗に姿勢を正し、弓の弦を引く。顔から笑みは消え、その集中している姿に矢は使わないのと聞ける状態ではない。
静かに優美に弓を引いている女性。その女性の身体から白い湯気のようなものが溢れ出すのを見たような気がした。
一瞬後、響いた弦の音。たったの一音。長大に壮厳に。
その弦音で感じていた寒気が去り、心地好い暖かさを感じる。
瘴気に取り付かれ、無我夢中に狂声を上げて戦っていた魑魅魍魎達は静かに地に沈む。
太陽の僅かな残り火は消える。夜はやって来た。
まだ一話、二話続きます。