黒猫とその人はやって来る 2
気付いた時には既に西日が射している剣道場の裏手にある石階段。鍵を閉めに来た用務員のおじさんが一人で雑巾をかけている私に声を掛けてくれなかったら、時間の無常な経過に気付かなかった。
まだ、二年間時間を見ること以外ほとんど使われていない携帯時計となっている電話は16:30をディスプレイに表示している。唯一、親以外で登録されていて、何回かメールのやり取りをした事のある先輩に、始めてこちらからメールを送るかどうか悩んでしまう。
今日、風邪を引いて休んでしまった先輩。お見舞いにメールを送るぐらいに、いや、私にとってはそれ以上にお世話になっている。だから、今ここでメールをする事が何だか四季先輩に、私が今日の事を告げ口したい気持ちが見えるようで嫌なんだ。
四季先輩を心配する気持ちも確かなんだけど、先輩のメルアドを前に指は動かず、結局、食べ頃を過ぎた弁当の包みを開く事にする。
こうやって、一人で食べるのは、いつもの事。クラスメートが学校に居ない休日の部活には、四季先輩がつまらない話題しか持っていない後輩にわざわざ付き合ってくれるけど。家に帰ったら、やっぱり勇気を出して、早く元気になってくださいのメールぐらいは送るべきだ。
ニャア~と私の隣で高い声が一つ。私の隣にちょこんと背筋を伸ばし礼儀正しく座って、つまらない私の顔を見上げる黒猫。
「えっと、分け前が欲しいのかな?猫ちゃん?」
気分がかなり良くなった私は手のひらに一欠片の卵焼き乗せて差し出す。美味しそうに食べてくれる猫。可愛い。オレンジな光に照らされる綺麗な黒い毛並み、そして、金色に光る優しい眼。私は心が和やかになり、撫でたいと言う欲求が出てくる。私はこの可愛らしい不法侵入なお相伴者がとても嬉しかった。その猫の後ろで静かに降られるもう一本の尻尾がミえて少し警戒心が生まれるまで。
「えっと、猫さんは化け猫さんですか?」
敬語になって通じるかも分からない人間語で話し掛ける。
「やはり、お嬢さんにはミえているようだね」
黒猫は首を曲げて自分の尾を見た後に、フリフリと愛らしく二本の尻尾を振りながら、人間語を話す。
「残念ながら、我輩は化け猫では無い」
私のミエル体質上少しだけ勉強した知識からの推理は外れたようだ。しかし、猫が我輩って…。
「我輩は猫又である。名前は…」
「まだ無い、の?」
化け猫と猫又の微妙な違いが分からない事はさておき、私のある有名小説の有名な序文に続く台詞に、首を降る猫。
「親しき人達からランポと呼ばれている」
これまた、文豪の名前。黒猫という事が理由ならば、エドガーとか、アランとか、ポーとかにするべきじゃないのだろうか?
「お嬢さんの名前を聞いてもよろしいかな?」
そう言って私の顔を覗き込んでくる猫又さん。家族で唯一私と同じ体質で、私に理解のあったお婆ちゃんに教わった事の一つ。『この世のものじゃない者に簡単に名前を教えちゃいけないよ。名前を教えたら取り付かれてしまうからね』
この猫又さんはとても紳士的な態度だけど、文字通り猫を被った恐ろしい猫又かも知れない。しかし、相手は名乗ったのに、此方は名乗らないというのは失礼だから、少し迷ってしまう。
「おっ!ランポ何やってんだ?仕事サボって女子高生を口説きやがって」
物言いとは違い笑いながら近付いて来る見知らぬ男性。黒い帽子に黒いジャケットに黒いズボン。
「我輩は此方の不思議なお嬢さんと少しお話をしていただけだよ。お嬢さん、これは我輩に名前を付けた真打士郎という者だよ」
ランポさんに紹介された真打さん。服装を変えれば何処にでも居そうな眼鏡の二十代ぐらいのお兄さん。この人がビジネススーツを着れば、普通の新米サラリーマンに見えるし、工場の作業着を着れば、普通の工員に見える。私服を着ていれば、パチンコ屋に座って居ても可笑しく無いし、鉛筆を耳に挟んで競馬場を競馬新聞を持ちながら彷徨いて居ても違和感が無さそう。若いようで、おじさん臭そうな感じの人だ。
失礼するよと私の隣にランポさんを挟んで座って、慣れた手付きで煙草を吸い出す仕草とか。校内全面禁煙と言う規則を教えるべきだろうか?
「確かに不思議なお嬢さんだ。君はミえるの?」
眼鏡の奥に輝く優しそうな瞳。ランポさんが居る今、私よりも不思議なこの人に嘘をついても仕方がない。ランポさんと普通に話す様子から、この人もミえる人なのだろうと思えば、戸惑いも薄れる。
「そうか。名前、聞いて良い?」
遠慮がちに頷いたと取られただろう私は、ランポさんに聞かれた時と同じ迷いを感じる。でも、この人は私に危害を加えようとはしないだろう。不思議な気配を感じるけど、生きてる人間だろうし。
「瀬川七です」
「ナナちゃんね?」
久しぶりの自己紹介に、煙を吐きながら笑う真打さん。しかし、真打さんの眼鏡の奥の優しそうな眼は直ぐに険しい物に変わる。
「ナナちゃん、悪いんだけど、今日はそのお弁当はしまって早く家に帰った方が良い。この学校は今ちびっと、いや、大分危ないから」
真打さんの忠告。この学校が危険?どういう事だろうか?
「なるべく急いだ方が良いかも知れない」
固まってしまった私を急かす、眼が怖い真打さん。頭では理解出来ないものの、その声に慌てて食べ掛けのお弁当を片付け始める。
そんなやっと動き始めた私を襲った急激な全身に鳥肌が覆うような寒気。真打さんから、舌打ちが聞こえる。ランポさんから、私の心配する声も。
でも、私の心の中を巡る言い知れない感情。会ったばかりなのに、良い人だと思えるこの一人と良い猫又だと思える一匹。
その人達を私の横に立て掛けている竹刀袋に収まっている竹刀で思いっ切り叩きたい。叩き殺してしまたい。そんな私に在らざる感情が染み込んできた。
当小説は、某偉大なる文豪達とは何ら関係は在りません。
愚作者が某偉大なる推理小説家が大好きなだけです。
そのペンネームは某アメリカの小説家から拝借したという説も在りますが、先生曰く、江戸川付近を酔っ払って千鳥足で歩いている時に思い付いたそうで。
どこぞの駄目小説家見習いと違って、なんとも風流で、味のあるペンネームじゃ在りませんか?