前世の残滓
私が立っていた場所に、地面はなかった。
風が先に存在していて、そこに空が重ねられたような、順番の狂った空間。
……これは夢だ。
空間が折れていた。
踏み出した足の下に地面はない。代わりに、粒子が浮いていた。
私はそこで立っていた。立たされていた、というほうが近い。
周囲には、壁のようで壁でないものがあった。
膜のように薄く、風が触れるたびにきらきらと情報を撒き散らす。
壁の一つに、字が浮かんでいた。
「第1広域胞構造—異常なし」
見たことない文字だったから、何の意味かはわからなかった。
でも、その番号が私に呼びかけてくる気がした。
ふと、視線の先に誰かがいた。
距離はあるのに、見える。名乗らないのに、知っている。
「君は、無意識に空間に触れすぎた」
その人は振り返って言った。低い声。
髪は短く、瞳は私と同じ色だった。
声は風に混じりながら、心に響くような声だった。
私は手を伸ばした。
無意識だった。なぜかは分からない。
決まった動きしかできない。まるで演劇を見せられているかのように。
そういえばここは夢だ、とふと思った。
やがて私は、そのひとの“雰囲気”に触れてしまった。
情報が流れ込んできた。
数値、座標、術式、構文……それは魔法ではなかった。
“法術”だった。
私はそれを使ったことがないはずだった。
なのに、感覚だけは知っていた。
ベクトルを曲げる感覚。風が、重力を誤解する瞬間。
……力学結界。
……ベクトル。
今日、魔獣のブレスに飲み込まれる新美くんと禊くんに手を伸ばした瞬間。
そのとき、無意識で展開したのは、この感覚だった?
「やはりか。親和性がある。術式の情報にたどり着いたか。
……転生先、か」
なぜか、馴染みがある。どこで見たかはわからない。
意味が分からない言葉ばかりだけど、なんとなく意味が分かった。
視界が暗転する。記憶が揺らいでいる。
でも、“第1広域胞構造”という言葉だけが、耳の奥に残っていた。
◇◇
“そこ”に降り立った瞬間、私は自分の名前を思い出せなくなっていた。
壁が、違った。
知らない材質。どこか冷たい光。
ここはどこ?
呼吸しようとすると、誰もいない空間が私に問いかけてくる。
「超空間転移先の座標を認識しました。術者名を提示してください。」
術者? 私が?
でも、体の奥で何かが震えた。
それは“神坂”という名前で応答する記憶。
それは“私”ではない。けれど、たしかにここにあった。
「対象空間、第1広域胞構造内・第145空間。
超空間転移ベクトル、(0,0,0,145,-24.2)、確認」
「さて、やるか。
・防御層起動、2対、径1.2メートル・1.3メートル
・特権防御層起動、空間自動隔絶型、径1.5メートル
・読心術領域起動、径200メートル
っと。」
私の手が震えた。
違う。これは私の手じゃない。
けれど私の意思で、力学結界が起動した。
座標に刻まれた反応式を、私は覚えていなかったはずなのに、
術式が、詠唱せずに“自動で”起動した。
景色が切り替わる。
混乱する間もなかった。
目の前に現れた敵意。
それは魔獣とも人とも違う、“空間の破綻”だった。
誰かが叫ぶ。「この空間、神坂の管轄に移行した! 無関係者は即時離脱せよ!」
無関係者なのに私は離脱できなかった。
その神坂そのものなのだから。
どうするのだろう。みんながこの場から離れるようなことを。
神坂が動いた。
魔法ではなく“法術”を行使した。
神坂の詠唱が始まる。
首の後ろから何やら音がする。
「次元開闢。径300メートルの空間を対象。
5次元まで拡張」
「空間補正。基準座標を設定。
……眼前の空間断層中心座標
……Vec(0,12,145)」
「空間操作開始。ベクトル場を次元開闢空間に適用。
拡張脳に演算を一部委任。
(-100,-100,-100),(-99,-99,-99)
(-100,-100,-99),(-99,-99,-98.1)
(-100,-100,-98),(-99,-99,-97.2)
……オートフィル。……空間操作適用
」
私の心が、それを追った。
まるで過去の自分の演算式を、今の私が後ろから眺めているみたいだった。
やがて、周りの敵意が収まる。
その瞬間、私は名前を取り戻した。
さよ――私は、白庭さよ。
けれど、“神坂の記憶”が、空間に残っていた。
世界は、まだ彼女を覚えていた。
つかさの引継ぎメモにも言及してある、空を操る夢。
これを思い出すや否や、視界が明転する。