討伐
~さよ視点~
無意識に目の前に手を伸ばす。
咄嗟に防いだんじゃない。なぜかそうしなければと思った。
さよの前、何もないはずの空間に、風が集まる。
足元の流れが急に硬くなった。手を伸ばしてもいないのに、
空気が膜を張るように整列した。
さよ自身は術式を知らなかった。
けれどそれは、確かに“力学結界”だった。
領域に速度と質量を伴って侵入するベクトルをそらす。
そんな結界だった。
さよは、ただ視線を上げただけだった。
結界が張られたことに、本人は気づいていない。
◇◇
~新美視点~
「射線、こっちにきてるな」
新美はペンを握り直し、前方を指す。
何度も繰り返した。体にしみこんでいる。
魔力圧縮。
0.6MJの魔力を厚み3mmで円状に展開。
術式:周辺の窒素を伴い形状維持・座標固定・変形は許容
気密性維持を最優先。
これは高密度結界。
前世で準空間管理者として使っていた、防御領域同時構成術の簡易版。
今でも、一歩先に踏み出すだけで起動できるようになっている。
彼は、ブレス軌道の末端に結界を敷いた。
防ぐためではなく、“後から空間を戻すため”。
◇◇
ブレスが放たれる。
空間が“溜め込みながら”割れる。
けれど、さよの前では、風が散った。
新美の横では、風が受け流された。
結界が同時に展開したことに、誰も気づいていなかった。
でも魔獣は、前進を止めた。
自身の絶対の自信を持つブレスを凌がれたからか。
誰にも理由はわからない。
~さよ視点~
魔獣が、動いた。いや、動こうとして止まった。
前に進めなくなったようだった。警戒しているのかこちらを観察している。
私は息を呑んでいた。何もできないまま。
私の手は……誰かを守るように伸びていたけれど、
それが何の意味を持ったのかはわからない。
そのとき、空気が変わった。
誰かが、来た。教師だと思う。でも、名前は知らない。
髪が白い人、腕に巻いた奇妙な金具が光った。
「風よ、収束せよ。壁となりかの者を守護せよ」
声が重たかった。術式が空気を縫って、魔獣の進行軌道を折り返すように戻した。
……風の壁?、だった。
別の人が前に出た。服の袖が焦げていた。
「炎よ、我が掌に集い、螺旋となりて、かの者の殻を焼け」
掌から螺旋の熱が立ちのぼり、魔獣の皮膚が蒸れて消えた。
私はただ見ていた。
詠唱が、音としてではなく、意味として体に響いてくる。
術式は“詩”じゃない。これは、技術だ。完璧な座標の操作だ。
三人目が立った。目が鋭かった。何かを計算してるような顔だった。
「雷よ、稲妻の鼓動となりて、雲裂き、かの者を穿て」
魔獣の体がびくんと震え、青い光が走った。
循環していた魔素が……崩れたのかもしれない。
誰も、叫ばなかった。魔獣も、私も。
討伐は、感情じゃなかった。詠唱も、祈りじゃない。
これは、“できる人がやった技術”だった。
私はまだ名乗ることすらできない。
この人たちの名前も、知らない。でも、詠唱は心に残った。
◇◇
~新美視点。~
──魔獣討伐直後、構内の空気がまだ振動の残響を抱えている頃。
教師陣は淡々と後処理に入り、生徒たちも避難の座標再確認で慌ただしい。
そんな中、禊と禊は人払いした階段の影で、
空間の鳴りが収まりきらない場所に身を寄せていた。
未知のブレスに対して一秒以上保持するのは無茶だった。
ブレスの圧力が想定以上に強かった。
俺は、結界が突破されないように、指先にだけ意識を集中し、
ブレスと拮抗していた。ほかは見えていない。
……だからこそ、気づいたときには終わっていた。
横から白庭が、一歩踏み出していたのが視界の端で見えた。
腕を伸ばす瞬間は、見えなかった。
けれど、ブレスが止まった座標には、確かに――何かが展開されていた。
「……今の、俺じゃないよな」
誰も答えない。
空間管理者として、さっきの記憶・感覚を巻き戻す。
ベクトル演算反応。領域形成。脅威無力化ベクトル干渉。
意志に反応した魔力は、確かに“術式”を形作った。
力学結界、の感覚だった。
それも、コマンドレス。詠唱も、指示も、座標演算も――なかったはずだ。
「待て、あれ……あいつが張ったのか?」
彼女は記憶がない。
なのに、“術式”だけが完璧に成立していた。
俺の魔法より、速かった。
俺の結界より、空間に馴染んでいた。
白庭が、意図せず……力学結界を張った可能性。
「自覚、ないよな……あいつ……」
空間がまだ、さざめいている。
術式は解かれていない。
何かを守るように、あの座標は空間に記録されていた。
「白庭の、見たか?」
禊に囁いた。低い声だったが、焦りが滲んでいるのを自分でも感じる。
禊は首をかしげる。
「いいや……っていうか、ずっとお前の結界の基準座標見てたし。何かあったか?」
俺はまだ力学結界のあった場所を睨みながら禊に言う。
「力学結界。そんな感じがした。瞬間的に、魔獣の座標が逸れたんだよ」
「……まさか。白庭って、前世じゃ顔なじみいないぞ。
彼女っぽい空間管理者の噂も前世で無かったし。
しかも性転換薬の対象者だって話じゃん。そんなん、記憶に残るわけない」
「うん、だから……気のせいかもしれないけど、
あのブレスの逸れ型、ベクトル演算反応……」
あれが偶然なのか?
「正直違和感はあった。俺も座標ログで一瞬赤文字の歪み見えたけど、
解析途中で切れた。教師の術式が上書きしたから」
禊は、結界の破片が残る空気を指先で探るように撫でた。
「何か……間違ってる。いや、うまく張れてた。けど、詠唱がないんだよ。
俺の知ってる力学結界と挙動が似すぎてる」
疑いが晴れない。
「だからさ、それはさ……」
禊は息を吸い込んだ。
「風のノイズか、ただの座標反応か、それとも……さよが無自覚に何かを持ち込んでるか」
沈黙。
結界は、解けている。
魔獣は、討伐された。
「……もうちょい調べてみるわ。ログ、借りる。
図書塔で旧式詠唱理論見直してくる。
力学結界、あの発動速度じゃ、そもそも……おかしいから」
「空間が甘すぎるんだよ、あいつに。昔から知ってたみたいな振る舞いでさ」
俺の声は、まるで空間を問い詰めるようだった。
自分でもそう感じたのを自覚して自分らしくないと思う。
……不穏だ。
◇◇
──教師陣による臨時会議。魔獣討伐直後、構内の空気がまだ落ち着かぬ中、
古びた会議室には数名の教員が集まっていた。
積まれた演算資料の端に風の痕跡ログが乗っていた。
「……あの生徒、白庭の周りで風が魔獣の息吹を防いで、散らしていたのを見た」
ひとりの教員が口を開いた。
「風そのものが壁になるような動きだった。
息吹自らが、壁から逸れていたんだ。
少なくとも、魔獣の反応が異常だったのは確かだ」
「その通りなら……」
資料をめくっていた年配の女性教師が顔を上げる。
「たびたび歴史書に記載のある神術だ。“方向を書き換えるすべ”という古い記録がある。
息吹自らが、壁から逸れるなんて例は、通常、見られない」
「彼女は……性転換薬の対象者だぞ」
別の教員が静かに指摘した。言葉に重さはないが、意味は深い。
沈黙が落ちる。
「観察しなければならないな」
最後に言ったのは副校長格の初老の男。
「本人に聞いても、何も覚えていないと言うだろうからな」
「それでも構わん。記憶が薄れているなら、行動ログのほうが信頼できる」
教師陣の視線が資料に戻る。
「観測対象に指定しよう。今後の実習、観測ログは必ず保存するように。
本人には……まだ告げずにいい。騒がせる必要はない」
風は語らない。
だが、教師たちは静かに、“記憶されてしまったもの”の兆しを感じていた。
力学結界と高密度結界ってなんだよ!
って人は別作品「魔力量=ジュール単位で設定を考える」ep.9
法術師の基本技能(防御層)を読んでみてください。
作中で軽く説明してますけどね。
さよの知識量を意識する場合はそのままで。更新予定のエピソードで説明します。