風の矢と、見透かす瞳
魔法の授業に初めて参加する。
校庭の端にある練習塔の上階、すこし古びた円形の実習室。
──第1屋内実習室。
窓から風が抜けて、床に散った紙がふわりと舞った。
今日の技術テーマは「風の矢」。
つかさの”引継ぎメモ”を見る。それによると、
風属性(炎・風・雷・光・水)の矢形状術式(弾・刃・矢・玉・奔流)。
授業の最初に、先生が詠唱文を板書して、手順を説明する。みんなは熱心にメモを取っている。
「風の矢よ、空を駆け、我が意に従い飛べ」
でも私は、ペンを持つ手が少しだけ震えていた。
技術的には簡単なはずだった。矢は視線の先に射出される。
――だけど、私はどこに向けて放つのか分からなかった。
詠唱しようとした瞬間、胸の奥がざらっとした。
昨日の記憶はあるのに、一週間前の“私”が何を感じていたかが、抜け落ちている。
隣席の稲守 一花さんが、指を止めた私をじっと見た。
「……こわいの?」
目が合った。笑ってはいない。でも優しいとも違う。静かな瞳だった。
「こわいって……何にですか」
私はそう返したけれど、語尾がすこしだけ下がった。
一花さんはうなずいて、ひとことだけ言った。
「初めてでしょ、魔法使うの」
風の矢は、目を合わせた場所に飛ぶ。
私が誰を見ているかで、矢の形が変わる。
そんな気がした。
◇◇
実習が始まった。クラスメイトたちが順番に木の的に魔法を撃ち込んでいく。
──私の番だ。
「……風の矢よ、空を駆け、我が意に従い飛べ」
矢が空を裂く音が聞こえた。でも着弾せず、音だけが残った。
発動は、した。でも当たらなかった。
どう狙うのかわからない。
「白庭さん、視線がぶれすぎ。うまく狙えてないよ」
一花さんだ。
……本当に視線なのかな。もっと頭の奥で迷っている気がする。
どこを狙うのか。……いや、私の身の振り方についてかも。
風の矢は確かに飛んだ。空を裂いた。
けれど、それは誰にも届かなかった。
先生は記録板の光を消して、「発動はした」と告げてくれる。
矢の軌道ログがノートに浮かぶ。
薄い青の線が、途中でふらついて、消えていた。
「風は、術者の意志にしか従わない。視線が不定なら、矢は自らの行き先を見失う」
先生はそう言った。でも、私には違うように思えた。
――私が、見られたくないのだ。
誰にも向けられたくない視線。誰にも届いてほしくない矢。
それでも魔法は、発動してしまった。
音だけが残って、風の痕が私の髪に絡んだ。
その瞬間、“白庭つかさ”という名前が、ひとつ後ろにずれて、
風の矢が抜けた記憶は、私ではない誰かのものになっていく気がした。
講義室に沈黙が落ちた。
──優等生、新美 潤の番だ。
彼は席を立たず、指先で空気の流れをなぞった。
矢を描くその動きは、手癖のように滑らかで。
「風の矢よ、空を駆け、我が意に従い飛べ」
授業板書通りの詠唱。けれど彼の声はどこか、呪式を“呼び出す”というより“確認する”ように響いて。
矢は迷いなく空気の筋に乗り、標的へ直進していった。
着弾音が教室に静かに響くと、先生が小さく頷く。
「見事。照準の安定と魔力流の均衡、どちらも完璧だったな」
彼は笑ってペンを回しながら言った。
「教科書通りに撃てば、授業じゃ困らないんすよ」
だが、その言い方には何かしら“退屈さ”が混ざっていた。
──禊 月人の番がきた。
彼は少し遅れて立ち上がり、指先を窓からの風に向けた。
教科書をじっと見つめたまま、ゆっくりと詠唱する。
「風の矢よ、空を駆け、我が意に従い飛べ」
その声は少し震えていた。詠唱は正確だったが、矢が組成されるまでに微かな遅れがあった。
風が揺れ、矢の形が少しだけ崩れる。
発射された矢は標的の脇に着弾し、わずかに紙を巻き上げただけだった。
先生は「惜しい。照準の確定が遅かったな」と告げた。
彼はうつむいて頷いたが、自分のノートに小さな字でこう書いた。
「風が、違う言葉を探していた気がした」
──稲守 一花の番だ。
彼女は立ち上がると、窓の風に目を細めてから、滑らかに言葉を紡いだ。
「風の矢よ、空を駆け、我が意に従い飛べ」
完璧な詠唱。教科書に忠実。けれど彼女の声には、どこか“誰かの欲望を刺すような”響きが宿っていた。
矢は美しい軌道を描き、標的の中心に着弾した――はずだった。
けれどその瞬間、標的の記録板に“微細なノイズ”が走る。
記録官が手元のログを見て眉をひそめる。「風圧成分に感情成分が……?」
彼女は矢が届いた方向を見て、ふっと笑った。
「仲良くしましょうね……って言っておいたほうが、風も優しく飛んでくれるんです」
先生が「……言葉に感情を乗せすぎると、風が他人の心に触れるぞ」と注意した。
でも彼女は、「触れてもらったほうが、嬉しい子もいるのに」とさらりと答えた。
さよはその一部始終を見て、こう記録した。
「風が、心を覗いた。私ではなく、彼女の目が、それを決めていた。」