さよの帰り道
放課後の昇降口。陽が傾いて、床のタイルの影が長く伸びていた。
下駄箱の前で、私が靴を履くのを待っていてくれたのは、大月亮冴くんだった。
「さよちゃんってさ……ちょっと歩くの、ゆっくりになったよね」
大月くんがそう言った。さよちゃん、と呼ばれることに、
まだ少しだけ違和感が残っている。けれど、声のトーンが優しかったから、嫌ではなかった。
「うん……。多分、スカートだからかも」
私がそう答えると、大月くんは少し笑った。
その笑顔が、以前に見たものと同じかどうか、分からない。
「前はさ――ほら、つかさだったころ。もっと急ぎ足だったよ。すぐ追い越されてた」
“つかさ”と呼ばれると、胸が少しだけ、チクリと痛んだ。
忘れていた名前。忘れるようにした名前。けれど大月くんは、それを軽く言う。
「……ねえ、大月くん」
立ち止まってみる。ふたりだけの帰り道。制服の袖口が夕方の風で揺れた。
「私がさ、つかさだったころの記憶って……どんなだったのかな」
大月くんは少し考える顔をした。昔のアルバムを思い出すみたいに、静かに目を伏せる。
「んー、つかさは……なんかさ、よく笑ってた。俺が言う冗談、誰よりも先に笑ってくれた」
そう言われても、今の私はその笑い方を知らない。
でも、大月くんが言ってくれたことを、ノートに書いてみようと思った。
今日の私は、“白庭さよ”。
幼馴染だった大月くんが、昔の私のことを語ってくれた。
――それは、ほんとうに私だったのかな。
帰り道、彼の歩幅に合わせるように、少しだけ急いでみた。
◇◇
自宅にて。夜の匂いは、味噌汁から始まった。
台所の戸が少しだけ開いていて、湯気が私の部屋まで届いていた。
食卓には、焼き魚とほうれん草のおひたし。
小鉢がふたつ。白いごはんの湯気が、ふわりと上がっていた。
「今日は、鯖にしてみたよ。脂乗ってるね」
母がそう言って笑った。
私は、「うん」とだけ答えたけれど、
本当に“うん”でよかったのか、ちょっとだけ考えた。
鯖は、やわらかかった。箸先で崩れるのが早すぎて、
口に入れる瞬間に、魚の形じゃなくなってしまった。
母はテレビを見ていて、ニュースの話題に反応していたけど、
私はそれを聞くだけだった。
「……さよ、ごはん進まないね。嫌いだった?」
「ううん、そうじゃなくて……考えごと。今日のこと」
母はうなずいて、「そういう日もあるね」と言って、お茶を注いでくれた。
つかさは好きだったんだろうな。
コップの縁に湯気がかかっていて、
それが自分の表情をぼかしてくれた。ちょっと助かった気がした。
どこかで、「女の子はたくさん食べすぎない方がいい」って言ってた気がする。
でも、私はどこまで女の子なんだろう。
味噌汁のわかめが沈んでいくのを見ながら、
「今日の私は、今まで通りだったかな」って思った。
今まで通りって、どういうことなんだろう。
湯船の温度は、たぶんちょうどよかった。
つかさの好みがわかるようだった。
髪を洗っているとき、指が耳のあたりで止まった。
女子はこういう洗い方をするのかな――と思ったけれど、すぐに忘れた。
鏡には、“さよ”の姿。つかさの記憶がないせいで、鏡を見るたびに、映るものと心が離れていた。
胸のかたちも、腰のラインも、どこか自分のものではないみたいで。
……でも、恥ずかしいとは思わなかった。
たぶん、思った方が“自然”なのかもしれない。
「裸になるって、恥ずかしいことだよ」
小学校の頃、誰かがそう言っていた気がする。そんな記憶は残っている。
でも、その頃の“私”が、どう感じていたかはわからない。
服を脱ぐとき、思考が少しだけ止まった。
でもそれは、“止まるべきタイミング”を探していたからかもしれない。
着替えは、いつの間にか終わっていた。
パジャマを着ると、服の布が肌に馴染んで、ほっとした。
女の子の部屋着って、こんなに軽かったっけ?
さよとしての生活には、もう馴染んでいるのかな。
今日も、記録することがある。
でも、どう書けばいいだろう。
「恥ずかしいって、何?」
……誰かに教えてもらえるのかな、それとも、いつか自分で見つけるのかな。
きっとつかさは笑って答えてくれたのかもしれない。
でも、これは彼のメモからじゃなくて自分で見つけないと。
そう思った。
◇◇
──そのころ、大月亮冴は、今日初めて会った白庭つかさ、
改め白庭さよのことを思い返していた。
昇降口の窓から差す光が、彼女の髪にかかっていて。
少し、白すぎる色。あれは“つかさ”の頃にはなかった色だったと思う。
初めて「白庭さよ」と呼ばれた日の彼女は、ほんの少し頷くだけだった。
でもそれが返事かどうか、俺には分からなかった。
それ以来、俺は彼女のそばにいるようにしている。
なんとなく。……いや、ちゃんと意味はある。
彼女が入ってきたことで、教室の空気が一瞬揺れた。
誰も口にしないけど、揺れていた。
元男子だった。みんな知っている。
でも“今の彼女”が何を感じているかは、誰も知らない。
だから、俺はそばにいる。支えてあげないと、と思ってる。
それはたぶん、義務じゃなくて、俺の意志だと思う。
時々、彼女が俺の目を見てくれる。
その瞬間だけは、呼吸を忘れる。
さよちゃん。今はその名前で呼ぶことにしている。
でも、俺の中では、どこかで“つかさ”のまま残ってる。
それがいけないことなのかは、まだ分からないけど。
彼女は、“彼女になった”だけだ。
それだけのこと。……たぶん。
……正直、つかさのままでいてほしかったと思うこともある。
でも、それを言ったら、きっと何かを壊す気がした。
……彼女が“さよ”である限り、俺は“さよ”を守りたい。




