さよの心と日常
あの日は、風がやさしかった。
理由なんて、別にない。ただ……教室の空気が、重く感じたから。
最近、人と話す機会は増えてきたけれど、それでもふとした拍子に息が詰まる。
だから、私はなんとなく、寄り道をするようにして校門を出ていた。
行き先は、公園。
町の外れ、少し草が伸びすぎた広場。ブランコの鎖が少し軋んでいて、誰もいないことが多い。
それが、むしろ落ち着いた。
制服のままベンチに座り、ふうっと息を吐く。
「……静かだな」
自分の声が、ちょっとだけ浮いて聞こえた。
目を閉じると、風と、鳥の声。
肩から力が抜けて、ようやく自分の輪郭が戻ってくる気がする。
――やっぱり、こういう場所の方が、私は好きかもしれない。
ふと、気配がした。
何かの視線。動物じゃない。もっと……人の気配。
そっと目を開けて、木立の方を見やる。
――制服?
木陰に誰かがいた。ポニーテール。あの後ろ姿は……
「……稲守さん?」
私は立ち上がって、そっと近づいた。
彼女は、上を見上げていた。何かを探しているように。
「……何してるんだろ?」
口には出さず、けれど小さな疑問が胸に浮かんだ。
彼女の視線の先。木の上――
「……え?」
枝の上に、何かがいた。ふさふさした尻尾。ぴんと立った耳。
悲しそうになーなー鳴いている。
「……にゃーさん?」
そんな声が、稲守さんの口から漏れた。
彼女は、困ったような、でもどこか嬉しそうな表情で、手を伸ばそうとしていた。
「降りられなくなっちゃって……」
“にゃーさん”は、枝の上でくるんと丸まりながらも、警戒した目でこちらを見ていた。
なんだろう。
思わず、私は一歩踏み出していた。
「……助けてみる」
「えっ、でも危ないよ? あたしが木に登って――」
うまくいく保証はなかったけど。
「……あれ、ちょっと、試してみたいから」
あれっていうのは……この前の実習でやった、浮遊術式。
でも、“魔法”をこうして誰かのために使うのは、悪くないと思った。
それに、この日差しと空気の中でなら――少しだけ、勇気が出る気がした。
言葉にしてみたら、少しだけ胸が静かになった。
私はゆっくりと、手のひらを上げる。
風の流れを感じながら、空気の層に“重さ”を与えるように意識を集中。
心の中で、静かに詠唱をなぞる。
「風よ、支えて……この子を、地に戻して」
足元からふわりと魔力が上がっていく。
術式が形になる感覚――まだ不安定だけど、動いてる。
枝の上の“にゃーさん”が、ふっと体を浮かせた。
そのまま、まっすぐ私の方へ――
「……取れた!」
両手で受け止めた瞬間、小さな体がじたばた暴れた。
「わ、ちょっ、暴れないで――」
軽い。けど、動きが読めない。足にひっかかれて、魔力が乱れる。
あ、これは――もたない!
「――あ、ああ……っ!」
風の支えが切れた。ぐらりと体勢が傾き、私は思わずよろける。
「危ないっ、白庭さん!」
その声と同時に、何かが私の背を支えた。
衝撃とともに、にゃーさん、私、そして何かもう一人が――
どしゃっ!
「……い、痛っ……って、あれ?」
気づいたら、私は芝生の上に倒れていて、にゃーさんが胸の上でもぞもぞしてる。
そして、すぐ横には――
「稲守さん……?」
「……まったくもう、白庭さん、ムチャするんだから。術式、まだ不安定でしょ?」
彼女は呆れたような、それでも笑ってるような表情で、私の肩を支えてくれていた。
「ありがと……ごめんね」
「ううん。にゃーさん助かったし、私も一緒に見てただけだし。
ていうか、普通あんなとこから浮かせようとする……?」
にゃーさんが「にゃー」と鳴いた。まるで満足げに。
そして、私たちの間にちょこんと座って、しっぽをぱたぱた揺らしている。
「……あはは」
なぜか笑いがこみあげて、私はつい声を出して笑った。
「何それ、急に笑うとかズルい~。私も笑っちゃうじゃん!」
芝生の上で、二人と一匹がごろごろしてる。
何かが壊れたように、軽くなった。肩も、背中も、胸の中も。
笑いすぎて少し涙が出た。
「ありがと。仲良くしようね」
稲守さんがそういってきた。
少しだけ驚いたあと――
「……うん、もちろん!」
その目に、観察するような冷たさはなかった。
ただ、まっすぐで、ちゃんと“隣にいてくれる”目だった。
――ああ、たぶん、こういうのを「安心」って言うんだ。
にゃーさんが再び、ふわっと私の膝に乗ってきた。
私はそのあたたかさを感じながら、少しだけまぶたを閉じた。
◇◇
~それから数日後~
放課後の保健室。
今日の空は晴れているのに、部屋の中はいつも通り、優しい曇りガラスのように静かだった。
私は、ベッドの端に座って、ハーブティーのカップを両手で包んでいた。
浅緋先生は向かいの椅子で、何も言わず、ただこちらを見ている。
「……三日前のことなんですけど」
口にしてから、少しだけ言葉を選んだ。
「その日の放課後、教室にいられなくなって、公園に行って……」
先生はうんうんと頷きながら、急かさずに続きを待ってくれる。
「……稲守さんがいて、“にゃーさん”っていう子を助けようとしてて」
「にゃーさん?」
先生が小さく笑った。
「なーって鳴く小さな生き物なんですけど。
木の上にいて、降りられなくなってて……。それで、私、浮遊術式を使って、助けてみたんです」
「おお、勇気出したねぇ」
「でも、途中で術式が崩れて……落ちかけて……。
……そしたら、稲守さんが、支えてくれて」
思い出すと、ちょっと笑えてくる。あのドサッと転がって、猫ともどももみくちゃになった瞬間。
「私、ちゃんと“ありがとう”って言えました。
それに……“仲良くしようね”って、言ってもらえて」
カップの中で、ハーブの葉がゆっくりと沈んでいく。
「その目線がね……怖くなかったんです。
観察されてるような、距離を測られてるような、そういうのじゃなくて……。
……観察とかじゃなくて……ほんとに“一緒に”いてくれてた感じで……」
先生は、何も言わず、ただ穏やかに聞いてくれている。
「……あの日、少しだけ、“私もいていいのかな”って、思えました」
静かな時間が流れる。
先生は、机の端から一枚の紙を取ると、さらりと何かを書きつけて、私に見せた。
そこには、こう書かれていた。
『それ、すごく大事なことよ。心の中の結界が、ちょっとだけ開いた証拠。』
「……結界?」
私が聞き返すと、先生はおどけて肩をすくめた。
「養護教諭風、カウンセリング用語よ。“心の結界”ってね、守ってくれるものでもあるけど、孤立させちゃうものでもあるの。
でも白庭さん、あの日のあなたは、“誰かを守るために術式を使った”んでしょ? それってすごいことだよ」
「……守りたかったの、かな」
ぽつりとこぼれた言葉が、自分でも少し不思議だった。
「“守りたい”って思える誰かができると、人は変わるんだってさ。
先生も、そうだったから」
浅緋先生は、懐かしそうに笑った。
「……“転校”の話ですか?」
私の問いかけに、先生は少しだけ目を細めた。
「うん。あの時もね、“いてくれてありがとう”って言われて、初めて自分の存在を許せた気がしたの。
だから、白庭さんにもそういう瞬間が来たのなら――ね?」
私は、ほんの少しだけ頷いた。
まだ、全部が楽になったわけじゃない。
でも、「あの時、笑えた」という事実が、今の私を支えている。
「……先生、私、もうちょっとだけがんばってみます」
「うん。無理せず、ゆっくり。ちゃんと見てる人はいるから」
先生の声は、まるで深い森の中に差し込む一筋の光みたいだった。
◇◇
~稲守 一花視点~
私は、クラスの中で浮いている。
誰も直接的に嫌ったりはしない。
でも、視線の角度が変わる。
会話の空気が、ほんの少しだけ私を避ける。
……まあ、無理もない。
『特異体質・心の耳』――なんて言うと、ちょっとかっこよく聞こえるかもしれないけれど、
実際には、他人の心の中が“勝手に”聞こえてしまうだけだ。
好きで聞いてるわけじゃないのに。
気づいたら、クラスの誰かの不安とか、怒りとか、嘘とか、全部――“音”のように流れ込んでくる。
最初は、怖かった。
そのうち、慣れたふりをするようになった。
でも、本当はずっと、疲れていた。
いつの間にか、周りから人がいなくなっていた。
声をかけてもらえないし、近づこうとすると空気が変わる。
……誰かに責められるより、ずっときつい。
こんな学園生活、正直、嫌になる。
だから私は、たまに耐えられなくなると、“にゃーさん”のところに行く。
あの子は木の上でのんびりしてる。呼んでもすぐには来ないし、たまに引っかかれるけど。
それでも――彼(?)の心は、静かで、まっすぐで、気持ちがいい。
「なーなー」
何があっても、ただそれだけを思ってる、小さな心。
計算も、嘘も、気遣いもない。
……ああ、癒されるなあ。
私は、木の下で一人、上を見上げる。
その時だった。
足音。制服の気配。誰かが、こっちに近づいてくる。
……白庭、さよ。
あの子の心は、音にならない。
正確には、“人間の音”をしてない。妙に重くて、何層にも分かれていて――
けど、なぜか、私は彼女を「怖い」と思わなかった。
むしろ、少しだけ、惹かれた。
この子も、浮いてるのかな――って。
・
・
・
結局、彼女は浮遊術式の維持に失敗して。
にゃーさんを抱えて落ちていく。
打算なんてなかった。
ただ、私の心が先に動いていた。
体……足が動いたのはほぼ同時。
結局、二人と一匹でもみくちゃになって。
おかしくなって。
白庭さんが突然笑ったのをきっかけに、いや、自然にそうなったのかも。
芝生の上で笑いながらしばらくごろごろしていた。
白庭さんとの初めての会話を思い出す。
風の矢の実習。不安そうな彼女に。
「……こわいの?」
と、声をかけた。
「こわいって……何にですか」
「初めてでしょ、魔法使うの」
性転換対象者だったから。
あれから、成長したんだなあ。
私も、追いつきたいな。
普段、私が使っている魔法の言葉。
「仲良くしましょうね」
相手の内面を推し量るあいさつ。
でも、彼女には、今の私たちには、
そのままの意味で言えると思った。
風が、ふっと芝生を撫でていった。
にゃーさんは丸くなって、白庭さんの胸の上で小さく寝息を立てている。
「……ありがと。仲良くしようね」
そう口にしたとき、私は“心の耳”を使っていなかった。ただ、そう言いたかっただけだった。
「……うん、もちろん!」
白庭さんがぱっと笑って、手を伸ばしてきた。私はそれを軽く握る。
――ああ、たぶん、これからも私はこの子に心を動かされるんだろうな。
心を覗くんじゃない。ただ、寄り添っていけたらいい。
そんな風に思えたのは、ほんとうに久しぶりのことだった。
◇◇
そんな穏やかな時間が、ほんの束の間のことだとは、このとき誰も知らなかった。




