無自覚の恋
講義が終わると、教室の光が斜めに傾いていた。
机を片づける手が、少しだけ緩む時間。
私はノートを抱えて立ち上がった。
昨日の炎の弾の記憶は、まだ腕の内側に残っていた気がする。でも、今日話したいのは風のこと。
昇降口で靴を履いていると、大月くんがこちらに手を振ってくれた。
「よかった、待ってたよ。今日はなんか風、変だったね」
彼の声は、夕方の風より柔らかかった。
「うん……ちょっと、風の矢の軌道が思ったのと違ってて。昨日の実習、復習しようと思って」
「じゃあ、帰り道で相談乗るよ。俺も弾道補正、ちょっと見たいところあったし」
歩きながら、私はノートの端をめくる。
風属性の式構文──“指先を風に合わせ、視線に対して射出”。
でも、視線って何?感情の向き?記憶の深さ?
大月くんが黙って横を歩いてくれているから、言葉にできない迷いも、少しずつ呼吸になる。
「……さよちゃんの矢って、迷っているって言ってたよね」
「うん」
「先生とかは視線が迷っているって言ってるけど。
その指導がふわふわだよね。どうすればいいか教えてくれてもいいのに」
私は笑いそうになった。でも、笑う前に風が吹いた。
前髪が揺れて、彼の指が、ふと動いた。
「これさ……実験してみてもいい?」
大月くんがそう言って、風属性の簡易式を組む。
風の矢ではなく、風の“渦”──緩やかな流れで、視線追従型の模擬術式。
風の矢の練習術式。
練習術式……練習としてそのあたりで行使しても常識的な魔法。
「これなら風の軌道が見えるはず」
彼が指先で風をなぞった瞬間、風が小さく巻いた。
でも──
制服の裾が、風に持ち上げられた。
ほんの少しだけ、揺れすぎた。
私は思わず、裾を押さえた。
風はすぐ消えたけど、空気がそこに残った。
気まずくもない。驚いてもいない。
でも、何かが“触れてしまった”感覚だけが残った。
大月くんが「あ、ごめん……」と呟く。
その声は、風よりもゆっくり沈んでいった。
沈黙が、制服の生地よりも長く残った。
足元を見て歩きながら、風の矢の構文を思い出そうとしても、違う感覚が邪魔をした。
身体の距離。記憶の距離。感情の密度。
「……うん、大丈夫。風だったし」
私がそう言ったのは、自分のためだった。
言葉がないと、意識が宙に浮くから。
「俺も、ちょっとぼーっとしてた。
よそ見しちゃってたかも」
気配。そうだ、風は“視線”に反応する。
じゃあ、大月くんはどこ……いや、誰を見ていたんだろう。
制服に触れた風は、大月くんの魔法だった。
でも、その“風の動機”は何だったのか。
私に着弾したなら……私を見ていた?
私は前を見て歩いた。
彼は隣を見て歩いていた。
空気が重たくはない。ただ、軽すぎてもいなかった。
風属性のことを話すつもりだったのに、
私は“風が触れた自分”の記憶だけが、胸の奥に残っていた。
──恋、だったのかもしれない。
でも、それはまだ“恋”とは言えなかった。
だから私は、否認した。
これは風のせい。魔法のせい。実習の延長。
でも、ほんとうは知っていた。
◇◇
風呂に入る前、ふと自分の体が見えて、考えてしまった。
大月君は、私のことを見ていたのかな? ただの偶然? それとも……。
何も考えずにいようとすると、逆に意識してしまう。視線の残像が、なかなか消えなくて。
「私って、魅力的なのかな?」
そんな問いが頭をよぎった。つかさだった頃の私と、今の私。
あのときの関係はどうだったんだろう。もっと素直だったのかな、もっと強かったのかな。
今の私が持っているこの感情は、どこから来ているんだろう。
昔の私と今の私、つながっているのか、断絶しているのか。
そう考え始めると、浴室の水の音さえ、心の中の波紋みたいに響いてきた。
◇◇
食卓に座ったけれど、箸を持つ手が震えているのに気づいた。
味も香りもいつもと変わらないはずなのに、どうしてか何も口に入れられなかった。
「さよ、大丈夫? 今日、元気なさそうだけど」
母の声が遠くで響く。
「なんでもないよ」
嘘だった。
でも、どう説明すればいいのだろう。
「大月くんのこと、考えすぎてて……」なんて言えるはずもなく、ただ黙って頷く。
父が心配そうに箸を置いた。
「何かあったら、話していいんだよ」
その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなった。
でも、まだ言葉にはできなかった。
心の中で絡まった想いは、夕飯の香りに溶けることなく、そこに漂い続けていた。
◇◇
~大月視点~
失敗した。
帰り道。さよの前で風の渦を失敗した。
それどころかさよにあたって服が微妙に捲れた。
彼女はまだ性転換直後だ。羞恥心などないだろう。
しかしこちらは意識してしまう。
欲望が首をもたげる。
さよはまだ常識が身についていない。
失敗した。
帰り道。さよの前で風の渦を失敗した。
それどころか、風が彼女の制服をめくってしまった。
彼女はまだ性転換直後だ。羞恥心など、たぶんない。
それでも――いや、だからこそ、自分が意識してしまう。
欲望が、首をもたげる。
反射的に押し込んだけど、完全には消えない。
さよはまだ、常識が身についていない。
制服のスカートに無防備なまま、風の感触をただ“事象”として受け止めている。
なのに、俺は……。
そんな無垢さに、動揺してしまった。
──最低だな。
指先の温度が、まだ残っている気がする。
あれはただの実験だった。模擬術式だった。
なのに、その“事故”に意味を見出してしまう自分が、気持ち悪い。
俺は、さよの気持ちを知らない。
つかさとは仲が良かった。
つかさのことはよく知ってい“た”。
でも、今のさよは今のさよだ。
女の子として、隣を歩いてる。
その輪郭に、目が慣れてきている。
声も、仕草も、迷いも、全部が“女の子”として脳に刻まれていく。
……でも、それに甘えるのは違う。
もし、俺の中の“好奇心”や“興味”が、彼女を傷つけるなら。
無垢なその目が曇るなら。
俺は、彼女の隣にいる資格を失う。
風が吹いたのは、たまたまだ。
そう言い聞かせても、内心では気づいている。
あれは、無意識だったけど、俺の“視線”が生んだ風だ。
彼女の方を見ていた。
迷っていた。
でも、その一瞬だけ、触れてみたいと思ってしまった。
風の渦に、そこを突かれた。
……最低だ。ほんとに。




