それぞれの疑念
なにか重要な夢を見た気がする。
つかさよりも、もっと私の本質に近いような――。
布団から起き上がる。今日も学園だ。
大月と待ち合わせている。早く準備しなくちゃ。
扉を閉めて、やや早足で坂道を下った。
夢の記憶はまだ髪の奥に絡んでいて、現実にうまく着地できていない感覚があった。
並木道に入ると、制服の白が緑の中で浮いて見える。
角の木の下で、大月が立っていた。
紙束を片手に、風で乱れる髪を撫でつけている。
「おはよう、さよちゃん。今日の夢、すごかったって顔してる」
思わず立ち止まった。
「……うん。別の自分の記憶だった気がする」
大月は少し眉を上げる。
「別の……つかさのこと?」
「……ううん。もっと遠くの、誰か」
「なるほど。俺ならそういう日はパンを買って現実に戻すけどな」
軽く笑って、紙袋を差し出してきた。
焼きたてのクリームパン。甘い匂いが会話を包む。
「ありがとう……これが現実の味なのかな」
二人は歩き出す。距離は、以前よりほんの少しだけ近かった。
学園の門に風が吹く。髪を押さえながら、ふと空を見上げた。
今朝の空は、風を覚えていないような顔をしていた。
◇◇
教室に入ると、空気がわずかに冷えていた。
騒がしいわけじゃない。呼吸の流れが決まっているような空間だ。
稲守さん、新美くん、禊くんの三人が窓際に集まっていた。
何かを確認するような雰囲気で。
先に歩いた大月が、少し手を上げる。
「……よう、お三方。さよちゃんも来たよ」
三人の視線がそろって向けられる。
その瞬間、空気がさらに整列する。まるで、風が“並び直す”ように。
稲守さんが、柔らかな声で問いかける。
「昨日の……ブレスのとき、白庭さん、怪我とかなかった?」
「うん……大丈夫。風が守ってくれた、みたいで」
新美潤が資料をペンで突いた。
「それさ、本当に術式だったの?
ログ見てる限り、発動タイミングが座標の揺れと合わないんだけど」
禊くんは黙ったまま、じっと見ている。
優しさがあるはずなのに、「確認している」ような目だった。
稲守さんは笑った。けれど、その奥に探るような視線を残している。
「術式が使えるなら素敵なこと。
でも……術式じゃないなら、それは誰の風だったんでしょうね?」
風が窓を震わせた。
さよには、その音が質問の続きを告げるように聞こえた。
数秒の沈黙。
「……風って、選んだりするんですか?」と、さよ。
稲守さんは目を細める。
「時々ね。選ばれたって、気づかないままの人もいるけど」
新美潤が肩をすくめる。
「選ばれたっていうなら観測できないと意味ない。
ログが出るまで待つしかないし……まあ、今日の実習もあるしね」
禊がようやく口を開いた。
「炎属性だよね、今日は。“火”は、選ぶより先に傷つくよ。覚悟して」
さよは頷いた。けれどその頷きが、誰に届いたかはわからなかった。
風は窓際で、まだ続きを待っているようだった。
◇◇
席に着こうとした時、大月が声をかける。
「……あっ。さよちゃん、大丈夫だった?昨日のやつ」
優しい響きのはずなのに、“昨日”という言葉が空気を変えた。
新美潤がペンを止める。禊はうつむく。
稲守は静かにさよを見ていた。笑みはない。
「……昨日?」
思わず聞き返す。
夢か、実習か、ブレスの瞬間か。どれが“昨日”なのか曖昧だった。
大月が首を傾げる。
「魔獣いたじゃん。ブレスの時。先生たちめっちゃ詠唱してたし……
あの時のさよちゃん、噂になってるよ」
心が一歩引いたまま、思い出そうとする。
風の抱擁、空の記憶。
でも“浮いていた”ことと“自分が動いた”ことの因果が思い出せない。
「……うん。覚えてる。でも、なんか……何もしてない気がする」
新美潤が冷めた声で添える。
「“何もしてない”のに、ブレス逸らしたってログに出てる。
結界展開の時間が、君の座標と一致してる」
禊が呟く。
「無詠唱なんて基本できない。実習でもやってないし。
記録なしで魔力が動くのは規格外……」
さよは困惑し、ノートの端を握った。
稲守が優しく言う。
「記憶って、動きより後に生まれることがあるよ。
昨日の風、覚えてなくても、風が覚えてることってある」
窓が鳴った。
それは、話を締める合図のように思えた。
◇◇
席に着いても、教室の空気は妙に閉じていた。
窓は開いているのに風が通らない。
新美潤はページをめくりながら、ちらりと視線を投げる。
その目は、数式でしか世界を見ないような冷たさだった。
禊はノートに文字を連ねていた。意味よりも「構造」をなぞるように。
稲守は少し距離を置き、肘をついている。
3人の視線が、さよを“観測”していた。
興味とも好意とも違う。ただの記録。現象を見定める眼差し。
話題はもう「昨日のこと」から離れている。
けれど誰も「さよ」と名前を呼ばなかった。
一度「昨日、大丈夫だった?」とラベルを貼られたあと、
再び名付けることを避けるかのように。
隣の大月は、無理に笑おうとはせず、ただ静かにページをめくっている。
さよの指先も、紙に触れないまま止まっていた。
風の音が遠ざかっていく。
教室の空気は、感情よりも――疑念の密度に似ていた。




