他動
「唯! 唯ってば、聞いてる?」
思案中の脳味噌の中は酒と愚痴でもうまぜこぜになっていて、そんな唯に容赦ない女友達の突っ込みが入った。
唯がカクテルグラスを持ったままで停止していた意識を戻すと白熱灯と煉瓦の壁のバーだ。一階には喫茶店で二階には夜のみ営業のバーになっているここは、庶務課の片岡とも短大時代の友人ともよく来る唯の行きつけで、カクテルを頼むとマスターのちょっとした軽食が付く。
金曜日である今日の一品は子羊のソテーのバルサミコソース、小さいけれど盛り付けにもこだわっているのが嬉しい。
「はいはいはい、聞いてるって。だから彼氏がどうしたのさ」
覗き込んでくる友人にしつこく三度ほど頷いて見せ、唯はソテーを大きめに切って口に放り込む。柔らかくて、凄く美味しい。
横に座る友人は唯の両側に二人、だがもう一人は長く続く彼氏の愚痴に飽きて席を替えてしまった。思案中のせいでタイミングに乗り遅れてしまった唯は、愚痴のいいはけ口だ。
「だって、浮気をね!」
「んー……、別れろ!」
「唯の馬鹿ー!」
先程から繰り返される同じ会話。余程、彼氏に浮気されたのが堪えたらしい友人は、もう酔いもいいだけ回って浮気の説明はこれで四度目だ、その姿はさながら少し呆け始めて食事を何度も催促するご老人。唯はもう一部始終経緯を誰かにそのまま説明できる位聞きまくって、もう既に正直うんざりしている。
大体、こっちはもう振り向きもしない女を五年間も思い続けている男を、これまた五年間も片想いし続けるという全く建設的ではない恋愛をしているというのに、彼氏とか幸せそうな話を相談されても唯には判断が難しい。幸せとか、嬉しいという恋愛の感覚とは唯はもうかなりの間不本意にも離れてしまっている。
浮気が嫌なら別れればいい。我慢できるなら続けばいい。前か後ろか決めるのは本人で、他人が口を出しても結局責任が持てない以上余計な口を挟みたくはない。
でも彼女たちが唯に求めるのは、はっきりときっぱりと決断させてくれる言葉で、今何よりも自分が決断しなくてはいけない重要事項に目を伏せて、唯はここにいる。
勉強会、と銘打ったものを、唯が行かなくなってもう二日目だ。木曜日と今日の金曜日、連続で無視している。
「だからさ、唯。簡単に別れられないんだってば」
「じゃあ、別れなければいいじゃない」
「そんな、簡単に言えるもんじゃないんだって。唯も彼氏が出来れば分かるけどさ」
抉る言葉は意外に色々な所に点在していて、きついと思いながら唯は手に持ったカクテルで乾いて痛い咽喉を潤おしてから友人の背中を叩く。出来るだけ、明るく。出来るだけ、はっきりキッパリと。
唯に求められる言葉は、今それだ。分かっている。
「私だって彼氏欲しいけどさ。うらやましいよ、悩めて!」
「苦労するんだよー?」
「あはは、いないから分からないんだけどさ」
いつか笑いがそのまま自分の顔になるんではないかと、錯覚する時がある。唯は友人に見えない様に横を向いた一瞬真顔になって俯いて、また無理に口端を上げる。
バッグに入った携帯電話は、電源を切ってある。唯の電話番号を知らない蜂屋からの電話は来るはずもなかったが、念のため木坂から連絡が来たときの保険だ。逃げてどうにかなるとは思ってはいないけれど。
「加齢臭って……どうよ?」
「は? 加齢臭?」
唯の口から突然飛び出した突拍子もない単語に、友人が驚いて振り向く。口に出していた事に、振り向かれて気付いて唯は片手を軽く振って誤魔化して見せた。
「いや、こっちの話」
「ふぅん?」
納得してるのかしていないのか、はたまた興味がないのか。空返事をして本日五周目の彼氏の愚痴に入った友人にただ相槌を打って唯は自分の考え事にのめり込んでいく。
勉強会、と銘打ったものを、唯が行かなくなってもう二日目だ。
加齢臭と言って走り去ったその日、唯はそのまま営業課に行かなかった。
通常であれば蜂屋と木坂の仕事が終わった頃を見計らって教えに行く唯だったが、その日はそのまま逃げるように帰った。そして、今日は通常勤務を二人に鉢合わせしない様に隠れながら終わらせ、また逃げる様に帰ってきた。
好きな男に加齢臭などとおやじ呼ばわりしてしまったのも堪えたが、何よりも唯には蜂屋の態度が一番堪えた。あれは絶対に子供扱いしている、もう妹でもなんでもない。手間のかかる子供ぐらいだ、成長して蜂屋の中で唯が女になるまでどれくらいかかるのか途方もない。
それに木坂だ。今まで何とも思わずに男友達としか認識していなかった自分の何と言う愚かなことか、今更だが気付くと木坂は立派な男でむしろ結構ランク的には上位に入る、らしい。思わぬダークホースに毎回背負われて部屋まで送って貰っていた唯は鈍感にも程があり、その木坂は本人曰く唯の選択を待っている。誤魔化して逃げたその選択は、どちらも安易に選択しづらく唯はどうしても勉強会に足を運ぶことが出来なかった。
「唯? 聞いてる?」
「あ、うん。聞いてるよ、彼氏の浮気でしょ?」
「そうなの!」
やっぱりまだその話なんだ。いい加減唯の方がノイローゼになりそうな友人の彼氏ネタに、唯は中座を申し出てバッグを持って手洗いに逃げた。
トイレは清潔でジャズが小さく流れている。そのモザイクタイルの手洗い場にバッグを置き、唯は携帯電話を取り出した。電源を入れると時刻はPM11:00。流石にもう諦めて帰っているだろう、と安堵して唯はそのまま携帯電話をバッグに放り込む。
手洗い場のタイルは黄色と紺と白。イタリアぽくもスペインぽくも見えるその幾何学的なタイルの並びを意味無くなぞって、唯は大きくため息をつくと友人の愚痴の六周目に備えるためバッグを持ってトイレから出ようとした。
その時に、携帯電話が震える。ああ、嫌だな。出ないままでいようかな? そう思うけれど電源入れたのが今さっきという事は、何度かきっと電話して今やっと繋がったから相手はさすがに気付いているだろう。わざと、電源を切ったということを。
開いたディスプレイには木坂の名前。唯は大きく深呼吸をして通話ボタンを押す。
「ごめん、木坂! 今日は突然、友達に呼ばれちゃってさ!」
相手が話す前に、素早く言い訳をする。すぐに返ってくると思っていた木坂の声は、なかなか戻ってこない。トイレに流れる小音量だと思っていたジャズはピアノオンリーではなくドラムやギターが入っているものに替わって少しうるさく感じた。
返事がないことに不安を感じて、電話が切れたのかと唯が呼び掛ける。
「木坂?」
『連絡ぐらい出来なかった?』
低い声に、唯は竦み上がった。連絡、したかったけれど出来なかった。木坂にも連絡しづらくて、蜂屋には連絡先も知らなくて出来ないし。そんな言葉は唯の口から出て来ない。
「だって」
『だって? 俺の連絡先は入ってるだろ?』
畳み込む木坂の声は唯を責めていて心苦しい。そうだ、本当はメモでも残せばよかったんだ。今更気付いても、唯の短絡的な行動はもう取り返しはつかない。正直、ボランティアでやっているんだから、それぐらい多めに見て欲しい、とも思った。勿論、そんなことは口には出来ない。
「……」
『春日、聞いてる?』
「……はい」
こういう時、唯は母親に叱られている子供のようだ。いつもなら子供っぽくあまり深いことを考えてなさそうな木坂も、こういう時に一つだけといえ年上なんだと感じる。さしづめ蜂屋が父親で、木坂が母親で、唯はやっぱり子供か。変な想像に唯はまた肩を落とす。
『理由は? 俺がいなくなって、あれから蜂屋主任と何かあった?』
「別に」
『……あったか。で、何?』
「別にないって」
『また、蜂屋主任にでもスルーされた? いちいち反応遅いからな、あの人』
「……」
『春日、いい加減諦めろって』
木坂は凄い、唯は全く説明できないままで携帯電話を握り俯く。返事なんてろくにしてないのに、どんどん唯の言葉を読んで話を引っ張って行く。
『春日? 聞いてる?』
聞いてる。本当は凄く辛いことあって、本当はもう蜂屋主任には会いたくなかったんだ。
もう好きなのも辛くて、どうしたらいいかわからないんだよ。
嫌いになってくれればいっそ楽なのかな、もう脈は無いんだって言って貰えれば楽なのかな?
でも、その言葉を木坂にぶつけるのは、逃げだったり、卑怯だったりしないの?
気持ちを都合良く利用してるって、そんなことにはならないの?
『春日?』
「……ごめ、もう切るわ」
落ちた涙のせいで鼻声になった。鼻を啜ると木坂にばれてしまうから、唯はそのままにしてトイレの鏡を見る。真っ赤な鼻の自分が映っていた。いや、本当にこれは酷い。
『春日、今出てるって言ってたよね。今、どこ?』
「喫茶店。無理、今会いたくないし」
こんな凄い状態は流石に見せられない。喫茶店、だけで木坂に分かる筈もないと思って高を括った。電話は唯が喫茶店、といった所で切れて、ツーと電子音が繰り返している。
ま、まさかね。そう思いながらもバッグを持って、慌ててカウンターに戻ったら友人が潰れていた。マスターと違う席にいた友人に、潰れた友人の介抱を任せて唯は喫茶店を飛び出す。
会社にいたとして、喫茶店に来るまで予想徒歩五分。走って三分弱。木坂の足の速さは見たことがないものの、あの足の長さでまさか遅いということは無いだろう。そう思って、喫茶店を飛び出すと既に木坂はドアの前にいた。
速い、予想以上だ。
「うわ、ビックリ」
素直に言った唯のその言葉は、呆れた表情の木坂に遮られた。
「何、その反応。春日、逃げようとしてただろ?」
ご名答。
「う、うん」
「逃げてどうすんの。……ほら、やっぱり泣いてた」
優しい声に、見開いたままの目から涙が落ちる。次はもう目の前だから、思いっきり鼻を啜った。耳の奥に超音波の様な高い音が聞こえて、唯は羽織った薄手のジャケットの袖で涙を拭う。
だって、もう本当は辛くて。どうしたらいいか、本当に分からなくて。
その言葉は唯の口から出て来ない。無音の「 」
しゃくりあげる唯の手を木坂が軽く掴んで、歩くように促してくる。夜も遅く、付近に飲み屋も居酒屋もない喫茶店周りの歩道には人影もなく、時折飲み帰りの客を探すタクシーだけが通り過ぎるだけだ。街灯が電気の関係か短く点灯する。
その中を無言で歩く。時折唯のしゃくりあげる声だけが響いて、その度に木坂のため息が聞こえた。
そんなに優しくしないでよ、私は木坂に何も返してあげられない。やっぱり無音の「 」
本当に、なってない。蜂屋主任が触れる度に、いつも期待してしまう。いつか、彼女を忘れた時に自分が傍にいたのならもしかして選んでくれるんじゃないかって。
あれだけ、優しくしてくれるなら、それも待っていられるのなら夢じゃないかって。
でも、いつも思い知らされるのは現実で、もう五年もずっとそれを繰り返していて。
「辛いよぉ、木坂。ごめんねぇ、木坂」
子供のようにずっとしゃくりあげながら、子供のように手を引っ張って貰いながら、歩くことしかできなかった
そんな私の手を、木坂は少しずつ力を入れて握る。ため息が聞こえる。
そのまま手を引いて貰いながら、その日は木坂にアパート前まで送って貰った。