鳴動
「春日」
「んー……?」
「それって、蜂屋主任の?」
「んー……、ってうわ! 木坂!」
終業後の休憩室でコピー機の説明書とファックスの説明書と睨み合いながら可愛らしいノートへ細かい作業を書き写していた唯は、肩に乗った木坂の顎に飛び避けた。立ち上がった拍子で白いデザイン椅子が後ろに引っ繰り返り、咄嗟に出てきた木坂の手の平で背もたれが受け止められる。
顔が近いって! 声にならない文句は、唯の赤面する表情で打ち消される。声が出ない。
「危ないなぁ、注意散漫じゃない?」
小さく首を振りながら一歩後退した唯に、木坂がいつも通りの笑顔を向けているはずだ。でも、唯は木坂の方を見ることは出来なかった。
そんな唯の動揺した様子を見て、木坂は小さく肩を竦め苦笑して見せる。手を伸ばして、唯の記入していたノートを手に取った。ノートは有名な高校生に人気のキャラクター物だ、少し唯の意地悪も入っている。
きっとこれを受け取った蜂屋は表情を変えずに「おう」位は言うだろう、そして営業課の皆に笑われればいいんだ。ピンクとレース模様の可愛らしいノート、それはどう見ても、女からとしか見えないだろうから。
一歩一歩木坂から窓側に離れる唯の方に一歩前に出た木坂は、片手をテーブルに付けてノートを軽く振り、人を小馬鹿にした笑いを浮かべる。
「春日、俺を意識してる?」
「あ、当たり前でしょ? 冗談にしても笑えないって!」
木坂の反応が一瞬止まった。
冗談じゃないのは知っている、唯は冗談としか言えないことを心の中で木坂に謝罪する。
ごめん、今あんたを失いたくは無いんだ。男友達の居場所はとても大切で、唯にとっては数少ない逃げ場だ。これを失ったら、自分はきっと蜂屋に特攻してしまう。そして、全てを壊してしまう。
逃げながら休憩室の窓にぶつかった唯は、視線を木坂から逸らした。見てられない。
「……冗談ね」
意味ありげな沈黙が怖い、いつもは快活で明快な木坂の空気は一変して無駄に迫力がありそれは片岡の彼氏である鈴木を彷彿とさせる。こんな本当に要らない所を似ないで、仕事に有能な所を似たらいいのにと唯は思うが、実際のところ唯が心配なんてしなくても営業課の方ではそこそこに成績はいいらしい。
「まぁ……今の所はそれでいいけど、ね。それはいいとして、ノート。春日、これじゃ蜂屋主任は理解できないよ」
含みのある言葉から突然あっけらかんと納得した様子の木坂は、チャンネルを入れ替えたのかいつも通りの口調にいきなり戻る。呆気にとられたのは唯だ、本当に人が変わったようで少し反応が遅れた。
「春日? 聞いてる?」
「……あ、うん。ここまで細かく書いても無理かな?」
少し怯えた反応のままなものの唯は背中にあった窓から離れ、木坂の持つノートに少しずつ近づく。木坂はノートの初めの方を捲ると、テーブルに置き一部を指差して見せる。
「コピーするまで、必要事項七つは無理だね。蜂屋主任なら三項目が限度」
物知り顔で説明する木坂は、蜂屋にファックスの使い方を説明しようとして断念した口だ。どうやら説明が三項目を超えて、蜂屋に紙の排出口から紙を無理やり押し入れさせるという勘違いをさせたようだ。
何がどうなったらそういう結論に収まるのか。本当にずっと見続けている男だが、その部分は唯には未だに理解できない。
「……そっか、コピーなら押す所のボタンだけとかの方がいいかな?」
「しかも絵とかの方が俺はいいと思うね。あの人にパソコンのマウスの使い方、レクチャーした時の悪夢を思い出す」
あ、それは話が長そうだから聞かないでおこう。唯は、椅子に座りコピー機の説明書をもう一度眺める。確かにこの説明だとトレイとかトナーとか蜂屋なら間違えそうな類義語がたくさんある。無駄を抜かすのは悪くないかもしれない。
「ありがとう、木坂! もう一回作り直す!」
「はいよ。俺の苦労を何とか形にしてよ」
「任せて!」
力瘤を作って唯は横に立つ木坂を見上げる。ふと、真顔になった木坂が唯の額に手の平を当てた。蜂屋よりも熱いけど、少し小さい。そう思った。
「春日、かわいい」
「なっ……!」
自然に木坂の口から洩れた言葉に反応して、また唯はその場から飛び退った。その動きを見て木坂がまた腹を抱えて大爆笑して、からかわれたのに気付いた唯は発火しそうな顔を両手で隠して木坂に背を向ける。
「信じられない!」
と、その時に木坂の爆笑が聞こえたのか営業課のドアが開いた。唯には背を向けたままの営業課のドアが、夕方の休憩室の窓に映っているのが見える。蜂屋だ。
「木坂。鈴木がお前の片付けた書類がないって言ってる」
「うへ! 鈴木主任は絶対机の上に置きっぱなしなんだと思いますよ!」
「俺に言われても分からん、鈴木に言え」
「はいはい、じゃね。春日」
振り返って小さく手を振った唯は、営業課に消えた木坂とは入れ替わりに休憩室に入ってくる蜂屋を見つめる。ワイシャツの胸ポケットから煙草の箱出して一本口に咥えると、流れるように火を付ける。
煙、臭い。唯は灰皿のあるテーブルから説明書とノートを揃えて除けた、灰皿を無言で蜂屋に突き出す。
秘書課の一件があった先日から久しぶりに会った。
「おう」
「ども」
短く挨拶をする。あれからどれくらいの時間秘書課にいたのかな。蜂屋と桜坂は仕事の話しかしてなかったし、互いに仕事中だったからそんな邪推みたいなことは変だとは知りつつも、胸騒ぎが収まらない。いつものように上手に作れない笑顔に、唯は顔を顰める。
そんな唯を黙って見ていた蜂屋が手を伸ばす。いつも通りに頭に手の平が乗る。木坂よりも大きくて重い、でも少し冷たくて、何よりも子供扱いされているんだと、そう思った。
熱くなる瞼を強く閉じて俯いて、唯は声だけは笑って見せた。
「私、子供じゃないですよ」
桜坂さんと一緒の、女ですよ。まさか、そうとまでは言えない。気付いているのかいないのか、蜂屋は煙を長く吐いてくぐもった声で笑う。
頭に乗った手も一緒に揺れた。
「お前が子供なら、一苦労だな」
またそうやって誤魔化して。あはは、と言葉通りの笑いを返す。もう限度が近づいている、今にも泣きそうだ。震える声を叱咤する、しっかりしろ。
「蜂屋主任が父親なんて、ぞっとします」
そんな思ったことなんてない。簡単にふざけて笑える自分が妬ましくも口惜しい。頭に乗った手から何か蜂屋の感情が流れて来ればいいのに、もしそれが自分を完全に拒絶するものなのであればきっと泣くかも知れないけど諦められるに違いない。
「そうか?」
「そうですよ! 蜂屋主任なんて、もう加齢臭で絶対に嫌われます!」
壮絶な台詞を蜂屋に投げ捨てて、唯は呆気に取られた蜂屋を尻目にすぐ背を向けて纏めた説明書とノートを抱えて給湯室に逃げ込んだ。
大きな音を立ててドアを閉めた給湯室は誰もいなく、片岡にきちんと整頓されたタオルや湯呑が整然と並んでいる。そのタオルを一枚手に取って唯は顔に押し当てた。すぐにタオルは熱く湿っていく。声を出来るだけ殺して、肩だけを揺らして、唯は嗚咽する。
「ふ……っえ…く」
もう、嫌だ。
もう、駄目だ。
動き始めた恋は辛すぎて、心が壊れて行く。無音の「 」空白を入れてしまえば、きっと残酷な結論が出るのだろうけど、五年想い続けた気持ちは余りに長過ぎて踏ん切りがつかない。
頭の中に鳴り響く音は長すぎる片想いの終結を知らせているようにも、唯には感じる。もうそれしか道は無いような、気もした。