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「  」  作者:
7/41

自動

「考えといて」その言葉は私に波紋を作り、静かにただゆっくりと水面を滑り小さな輪と大きな輪を作る。水底の火山を知りつつも凪いでいた心の中は、奥底の火山の存在と外で荒れる波に気付かせられた。

 水の中に潜るのか、外の嵐に向かうのか。ただ一つだけ分かるのは、まだ無音の「  」私はまた黙りこくる。自動的に動き始めて行く何かに、ただ流されることしか出来ない。

 このまま、このまま、ただひたすらこのままを望む均衡は失われつつあり、船はそのまま進む。


「秘書課に頼まれた?」

 唯の小声が沈黙の庶務課に響いた。課長が持っていた新聞を少し避けて、唯を覗き込んで睨む。唯の声は少し高めで音の通りが良く、小声でも耳に付きやすい。

 机の上にあるのは何かのレセプションの招待状だ、本来書類のコピーなどに徹する庶務課には絶対回ってこない仕事だった。それもよりによって秘書課からの依頼。

「うん、今日桜坂さんが来て。これを折りたたんでリボン掛けるの手伝ってくれないかって。業者に頼む予定だったんだけど、出来なかったみたい」

 軽く金箔の混ざりあう和紙に深紅のリボンは、唯が想像する桜坂のイメージそのままだ。意味ありげに唯が見詰めた紙は軽く上質で、触れると少しざらついている。

 唯が中を覗くと結構大口の取引先の名前が並んでいる、高級ホテルのグランドホールを借り切っての芯谷商事の記念事業パーティらしい。

 唯は肩肘を付いたままで二枚ほど捲ってみたが、残りは全部同じものだった。

「……ふぅん」

「やっちゃおうか?」

 唯の声には気付かずに、片岡が自分の椅子に座り直す。招待状を自分の場所に置き、リボンを唯の所に置くのを見ると仕事は完全分担制にする気らしい。唯の一つ後輩の片岡は、結婚退職をした庶務課の女性社員の後に入ってきた。初めは話すのもたじたじでなかなか的を得ず苦労したものの、今は親友に近い同僚だ。

 こんなに大人しい顔をして営業課の鈴木と交際しているとつい先日唯は聞かされて、それはそれは物凄く驚いた。そこの辺りは色々経緯があるものの割愛するが、紆余曲折合ったとはいえどうやら今は仲良くやっているらしい。うらやましいことこの上ない。

「はいよ!」

 気合を入れてわざと腕まくりして見せる。そんな唯を見て片岡が笑う、淀む奥底はきっと気付かれていない。

 気合を入れないと、こんな仕事、正直やる気がしない。何もしなくても蜂屋の愛情を完全体で受け止められる桜坂ひと、その苛付きは全て話したことのない桜坂に向かい唯の心を掻き回す。五年にも亘る細く長い想いはただひたすらに沈黙を守っていたのに、先日の木坂の一言から唯の心を切り裂いていた。

 じゃあ、全てを忘れさせて欲しい。そう思うのは勝手すぎて、唯はまだ木坂とも正面から向き合うことが出来ない。

 時折、視線に気付く。五年間の中で唯は自分を切り裂いて引き裂いてその状態を保ったまま、ただ片思いを続けていた。そんな唯をもしかしてずっと出会った同じ五年間、木坂は見守ってくれていたんではないか。今までの自然過ぎるフォローも、必ず蜂屋と唯を二人にしなかったのももしかしてずっと全部理解したうえでやってくれたんではないかと、そう思うと何も言えない。

 手に持った和紙の束にリボンを通していく、手が重い。


「おい、凄い量だな」

「見てるだけですか」

「……何か言うことは、無いのか?」

「持たなくていいです」

 持たないで欲しい、これは秘書課の頼まれ物だ。全て作り終えた秘書課依頼のレセプションの招待状は、段ボール箱一つになった。唯はそれを持ってよたよたとふらつきながらエレベーターに乗り込もうと下向きの矢印を押し、それが到着する前に営業課から出てきた蜂屋に会った。

 会うなり、蜂屋に段ボール箱の上に手の平を乗せられる。大きな手の平の加重が唯の膝に直接かかって、唯は大きめに体を揺らがせた。背中に大きな手の平が触れる、支えられているんだと気付くと同時に唯は込み上げる声を殺すために奥歯を噛み締めた。いちいち最近心臓がうるさい。

「無理するな」

 ひょいと、今までの唯の苦労を全く気にせずに唯の手から段ボール箱を取り上げた蜂屋は、なんと片手で段ボール箱を支えて唯の頭に手の平を乗せて優しく撫でる。確か結構な重さだったはずなのに、空の段ボール箱のようだ。

 似合わない優しさが、胸を切り裂く。似合わない優しい言葉が胸を引き裂く。近づいて来ないのならここまで見せては欲しくない、それは五年の間に培ったものなのかもしれないけれど。

 真顔になりそうな顔を、唯はただひたすら笑顔に変換する。思うことはただ一つ、それがあなたの望みなら。

「無理なんてしていませんってば! いいんですか? それ秘書課依頼ですよ?」

 桜坂に会ってしまう、そう含めたはずの言葉だった。そんな唯の言葉を気にしていないのか、蜂屋の返答はあっさりしたものだ。

「ん? どうした? 俺がいたら駄目な依頼か?」

 天然か、計算ずくか唯には全く読めない。

「あー……、違いますけど」

「じゃあ、いいだろう。お前も責任者なら付きあえ、行くぞ」

 桜坂さんに会いたいの? 本当はそう聞きたい。

 優しくしないで欲しい。  本当はそう言いたい。

 何年、期待して。何年、傍にいるんだろう? やっぱり私の無音の「  」まだ言葉は入らない。

 目の前にエレベーターが到着する、この中だったらたった二人きり。閉じ込められればその時だけでも一緒にいられるのに。

 踏み込んだ密室の中の無駄な緊張感を誤魔化すために、唯は話題を探す。秘書課のフロアのボタンを押した。

「蜂屋主任って、馬鹿力って言われません?」

「ん? 俺がか?」

「他に誰がいるんですか」

「言われんな、見た目通りとは言われる」

「それって! そのまま馬鹿力って意味じゃないですか!」

「春日、喧嘩売ってるのか?」

 蜂屋の腕が唯の首に回る。なんて優しいホールド、回るだけの体温に心も体も溶けてしまいそう。ずっとそのままでいたい気持ちを察されない様に、唯はふざけて痛くもないのに蜂屋の腕を叩いて見せる。

「痛、痛い! ギブです!」

「段ボール持ってやってるんだ、感謝しろ」

「感謝してまーす!」

 涙が出そう。震える指に、気付かないで欲しい。

 どうしてこんなに優しくしてくれるのに、私じゃ駄目なんだろう。期待を持たせるのに、どうして私の方を向いてくれないんだろう?

「蜂屋主任、この前の奢ってくれたお店。また行きましょうね!」

 俯く顔に、気付かないで欲しい。

「おう、木坂も一緒に奢れって言うんだろうな」

「あはは、そうですよ。金魚の糞ですから!」

 大きな声で唯が笑った時に、エレベーターが秘書課のフロアに着いて扉が開いた。先に出る蜂屋の背を唯は追う。役員室と社長室があるこの階は廊下は全て絨毯張りで、小走りしながら助かったと唯は胸を撫で下ろす。蜂屋の歩幅と唯の歩幅は違いすぎ、いつも一緒に歩くときは唯は小走りだ。

 絶対にペースを合わせない、蜂屋がする唯との線引きだ。待たない、誘わない、連絡しない。

 それは五年たった今もずっと守られていて、唯は未だに蜂屋の連絡先を知らない。蜂屋も唯の連絡先を知らない。何度も食事に行って、勿論木坂もいるけれどアパートの前まで送ってもくれるし、他の女性社員とは全く違う顔を見せてはくれるけれど、唯は彼女にはなれない。

 それは慣れた感覚だったはずなのに、ここ一か月で急激かつ自動的に唯の中で怖いくらい膨らんで苦しくなってくる。

「おい、ノックしろ」

「はいはい」

 会わせたくない、思いだして欲しくない。苛立ちはきつい語尾になって唯の声を不機嫌にさせる、そんな唯を見て蜂屋が少し不機嫌そうに目を座らせる。

「何だ、その言い方は」

「何でもないです」

「おい」

 蜂屋の抗議の声を遮って、唯は心持ち強めに秘書課のドアをノックする。時折、専務や常務がいる秘書課はノックと挨拶が基本の礼儀で、唯は蜂屋を置いて秘書課のドアを開けた。庶務課の倍はある部署だ、その真ん中の席に桜坂がいた。

「あ、もう終わったの? ありがとう、助かったわ」

 立ち上がり微笑む桜坂は、少々派手とはいえそれが良く似合う十分な大人の女性だ。伸びた爪に真珠色のマニキュアが見えた、唯の指にはシャチハタのインク。余りの差に涙が出てきそうだ。

 桜坂の視線が唯の後ろの蜂屋に行く。見ないで、そう叫びたいのを唯は我慢した。

「蜂屋主任が持って来てくれたの? 紳士的ね」

「おう、ここに置けばいいか?」

「ええ、ありがとう」

 ああ、胸が張り裂けてしまいそうだ。慣れ親しんだ会話は唯と話す声質と違っていて、無言のままで唯は思い知らされる。

「ちょっと、蜂屋主任来たついでにこの取引先の事聞いてもいいかしら?」

「おう、なんだ?」

「ここの住所、最近変わったって聞いたんだけど」

「蜂屋主任!」

 思った以上に大きな声が唯の口から出た。桜坂の手に持たれた招待客リストを覗き込んでいた蜂屋はその顔を上げる、その横で桜坂も唯を見た。

 

 無音の「  」


「私、片岡さんに頼まれてた仕事忘れてたんで、庶務課に戻ってます! 持って下さって、ありがとうございました!」

「あ、おい」

 すぐ踵を返して、唯は秘書課を飛び出した。

 もう見ていたくなかった。

 望もうと望むまいと、動く心が口惜しい。

 

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