震動
「長いね、春日も」
横でビールを飲む木坂が笑う。木坂と通い慣れた行きつけの焼き鳥屋は、相変わらずスーツ姿のサラリーマンが多い。むっとした人いきれと煙草の匂い。それと焼き鳥の焦げたいい匂い。
「そう、かもね」
焼き鳥のハツを食べながら唯も頷く、頬は二杯目のジョッキで少し熱い。
「良くあんな機械音痴を嫌がらず追いかけるもんだ、と俺は思うんだけど」
「確かに、あれは本当に破壊的だわ。破砕機なだけに」
ん? 今結構際どいこと言ったよね。ジョッキの中身で一気にハツを飲み込んで、カウンターに軽く突っ伏して唯が横の木坂を見上げる。こっちを向いていた木坂が、そんな唯から目を逸らした。口元に軽く手を当てている、失言だったという表情もしている。
追いかける? 酒で正常判断を失った頭は反応も愚鈍で、少ししてから唯は首を傾げる。
「ごめん。俺、今の失言。忘れて」
短く言った木坂の言葉で唯は我に帰る。失言って、長いとか追いかけるとかって言ったよね?
酔っぱらった頭は情報収集と整理整頓を終わらせてひとつの結論を導き出した、やっぱりほら木坂にもばれている。そんな簡単な仮面、蜂屋に気付かれないはずはない。
「木坂、私ってそんなにバレバレ?」
「バレバレっていいますか、あー……」
木坂の語尾は長く、いちいちもどかしい。唯は残ったジョッキを一気飲みする、横で木坂が慌てる姿が見える。
「春日! お前、そんなに一気飲みしたら潰れるって!」
「じゃ、質問に答える!」
酔った声は大きい。案の定離れた場所にいたサラリーマンが眉を寄せてこっちを見て、唯は負けじと相手を覗き込む。そんな唯を木坂が宥めながら、カウンターの方向に戻す。
言いづらそうに木坂は髪に手をくしゃ、と掻き入れ「あー……」とまた長い語尾。唯は片手を上げて、ジョッキの追加を頼んだ。この際木坂は無視することにする、長そうだから。
「いやいや、色々理由はあるんだけど……って、春日! お前いつジョッキの追加頼んでた?」
「今。木坂、長すぎ。何話してたか、忘れちゃった」
忘れたっていうか、もうどうでもよくなった。お酒の力は凄い。そういえばこの間の木坂と飲んだ時は潰れて、店から部屋まで木坂の背中だった。もしかして、今日もそのルートかもしれない。
破壊魔の蜂屋の講習は3日目。一向に覚えない蜂屋は、唯の欲目で見れば構って欲しいのかもと勘違いしてしまうが、実際の所ずぼらで大雑把な所が前面に出てただ単に覚えないだけだ。初日は帰りに木坂共々蜂屋に食事をごちそうして貰って帰宅し、昨日はまた何故かいる木坂と一緒に蜂屋に部屋まで送って貰った。
そして、今日またまた何故かいる木坂と反省会。結論は、奴に覚えさせるのは無理。でも課長に宣言した以上、何とかしてあげないと駄目で結局唯が仕事合間を縫って簡単なマニュアルを作ったらどうか。そういう話に発展した。
惚れた弱みというか、やっぱり絶対に通じない相手とはいえなにか役には立ってあげたくてそれがボーダーラインだった。可能なだけ近づいて、可能なだけ蜂屋の手元に自分の何かを残す。
蜂屋が足を引く寸前を見計らって、唯は出なくてはいけない。出過ぎては背を向けられる、それだけは絶対に嫌だから。
届いた三杯目のジョッキを一気に半分くらい飲む。呆れた表情を隠そうともせずに木坂が肩を落とした。そんな気配を感じながらも唯の瞼は閉じそうになってくる。
「春日、お前俺におぶさってまた帰るつもりだろ」
「木坂、頼んだよ。……大好きだから」
いい男友達でいてね。唯はその最後の言葉を言わずに、カウンターで眠りにつく。
横で木坂が大きなため息をついた。
「春日、起きろ。部屋に着いたぞ」
真っ暗な中に木坂の姿がぼんやり見える。唯は置かれたベッドの上で寝返りを打つ、木坂の背中での覚えはない。本当に熟睡していたらしい。
「んー……」
眠い目を擦って見上げると、少し荒い息の木坂が覗き込んでいた。
「木坂、酒臭い」
「お前な、背負って階段登ってきた俺にそこまで言うか?」
少し苛ついた表情で深呼吸している。どうやら部屋の前で唯を下ろそうとしたものの何度声をかけても起きずに、結局部屋の中まで入らなくてはならなかった、そんな感じだった。いくら仲良くしてるとは言っても、木坂を部屋までは入れたことが無くて唯は少し体を起こして部屋を見回す。地道に掃除しておいてよかったと思ったのは、本当に初めてだった。これで下着が落ちていたりなんかしたら、泣ける。
「アリガトウゴザイマシタ」
「お前に言った俺が馬鹿だった。春日、何か飲み物飲ませて。それから帰るから」
「あ、冷蔵庫。お茶があるよ」
「サンキュー、貰う」
大股で冷蔵庫に歩き寄っていく木坂を見ていて、いつも部屋にある筈の冷蔵庫の小ささに唯はビックリする。何のことは無い、冷蔵庫が小さくなったのでは無くてただ木坂の体が大きいだけなのだが。
少し、思う。きっと蜂屋ならもっと冷蔵庫は小さく見える。来ることは、絶対に無いけれど。
ペットボトルのキャップを回し取って一気にお茶を飲んだ木坂は、そんな唯の視線に気づき振り返る。
「どした?」
「んー……何でもない」
「具合悪いんじゃない? 春日、飲みすぎだよ」
「あー……そうかもね」
お酒を飲むと余計な事を考えてしまってどうにもならない。抑え込んだ五年の想いは時折鎖になって突然締めつけてくる。
唯はベッドに横になって布団を被って、布団から片手を出してひらひらと木坂に振って見せた。「帰って」正直そのつもりだった。余り弱い自分を見せたくはない。中身の無い「 」それは唯の何とか守るたった一つの壁だ。
「木坂、ごめんね。もう寝るわ、鍵はドアポストに落としておいて」
ペットボトルをゴミ箱に叩きつける音が聞こえる。唯はベッドの中で丸まった。ぎしり、ベッドの軋む音が聞こえた、自分が出した音ではなかった。
布団を被った唯の頭向こうに何かが押しつけられる気配がする、丁度耳の辺りにも圧迫感があって聞こえた声で木坂の顔だと分かる。
「春日、俺にしなよ」
くぐもった声は酔っぱらって笑ういつもの木坂の声じゃなくて、唯はびくつく。びくついたせいか、それとも木坂が体勢を入れ替えたのかまたぎしりとベッドが軋んだ。
「主任は無理だ、きっと。春日、泣くよ?」
そんなこと知っている。長い時間、ずっと見ていて知っている。あの人は私を受け止める振りをして、上手く逃げている。ずっと心に仕舞ったもう話さない女の人の面影をずっと追って、こっちに振り向くことは無いってことも、ずっと知っている。
だから私の無音の「 」木坂みたいに簡単には言えなくて。
「考えといて」
そう言い残して、木坂は最後に軽く唯を布団の上から抱き締めてから、立ち上がった気配がした。足音は一度離れて、止まって、少ししてからまた離れて行く。ドアが開いて、閉まってドアポストに鍵が落ちる音がした。
どうしたら、いいのか。もう分からないけれど、ただ心が震える。