蠢動
次に、その人の名前を聞いたのは、それから1カ月後でした。
「蜂屋さん、彼女と別れたんだって」
脳裏に浮かぶのは寡黙というか、無愛想でぶっきら棒な蜂屋の姿。
へえ、あの人彼女いたんだ。社員食堂のエビフライを口に突っ込んで、唯は同僚の話に相槌を打つ。安くて味もよく、値段も手ごろな社員食堂は昼時なので賑わっている。吹き抜けから差し込む日射しは初夏に入る手前なので眩しくも、熱い。
「ふーん、彼女って芯谷の人?」
「秘書課の、桜坂」
桜坂、思いだせるのは綺麗目で少々、いや結構派手目な秘書課の女性社員の姿。唯は口に入ってまだ飲み込んでいないエビの塊を水で押し流す。
似合ってる、うん。あの迫力にはそれくらい派手な方がいいような気もする。
興味があるようにも、ない様にも取れる予防線を張りながら、唯はポテトサラダを口に入れた。
「んー……、お似合いなのにねぇ」
「なんか、桜坂の方から切ったらしいよ」
それまた、意外な。そもそも、唯の中でイメージがまだ確立していない蜂屋では全く想像がつかない。泣いたり、悩んだりするんだろうか。逆に興味をそそられる、というか、見てみたいような。
営業課は常に忙しく、華やかな表のイメージとは違い建設的で地道な情報収集と、緻密かつ精密な書類、それと取引先の度々の訪問を繰り返す過酷な業務だ。同じフロアにいると、唯は特に感じる。どうやらその営業課の中でも出世頭らしい同期の蜂屋と鈴木は、常に女性社員の中でも名前が出る二人だ。 まあ、唯が庶務課だから特に7階フロアの営業課の話が耳に入る、ということもあるのかもしれない。
「まー……、人それぞれ色々あるしねぇ」
「そうだけどさ。春日、クールね。恋愛、興味なさそう」
興味無いわけじゃないけどさ。ここで口に出して色々目を付けられると、困るっていうか。
結婚優良物件である営業課の面々は、その争奪戦も唯の情報収集では結構熾烈で筆頭には名乗り出たくないというのが唯の本心だ。
親に心配されて入ったこの会社という居場所を、手放すわけにはいかなかった。
唯は空になった皿が乗るトレイを持って立ち上がる。
「まだまだ、私には早いって! まだ22歳だし!」
「あはは、春日っぽい」
「恋愛相談ならいつでも乗るからね」
「じゃ、なんかあったら春日に言うわ。営業課にツテ作って置いて」
「任せて!」
恋愛関係は苦手だ。いつもなら簡単に出てくる声も途端に絡むと、それは難しく哲学的になる。前の会社にいた時もそうだった、嫉妬や羨望は時に人を竦ませて動けなくさせる。
その強い感情がとても唯は怖い。自分の中の「 」その中に入れる言葉はいつも探しきれない。
社員食堂を出て、早く済んだ食事で持て余した時間を解消しようと向かった7階フロアの営業課側にある休憩室に行くと、唯は1人で佇む蜂屋を見つけてしまう。正直、余り話したくなかったものの今更踵を返すのもわざとらしく、自動販売機に向かう。ジュースを買ってからすぐに庶務課に戻ればいいやと、気楽な気持ちだった。
「おう」
「ども」
短い挨拶だけで、沈黙が流れる。蜂屋が煙草を吸って吐く、その音が背中で聞こえる。んんん、やっぱり6歳も年上になると大人っぽさが違う。
お気に入りのがま口財布から小銭を出して、唯は炭酸飲料のボタンを押した。
「おい」
「ファスナーは閉まっています」
「ん」
なんだろう、この熟年の夫婦みたいな会話。出てきたジュースを取って唯は蜂屋を振り返る。どんな顔をしてこんな話をしているのか見てみたかった。女性社員の中で出てくる蜂屋の姿は寡黙でクール。常に表情を変えずにぶっきらぼう。
こんなファスナーの話ばかりしてくるタイプでは全く無い。そこが、唯は気になった。
振り返った唯を見て、蜂屋は表情も変えずに一度煙を吸って吐く。持った煙草を灰と吸い終わった煙草が山になった灰皿に押しつけた。
「どうした」
「蜂屋さん、彼女と別れたって聞きましたよ」
「おう」
やっぱり鉄面皮だ。表情は変わらない。でも違う、表情が変わらないからって悲しんでいないとは限らない。同類意識なのか、聞いてはいけないと思いながらも口は止まらなかった。
余計な事は簡単に口から出てくるのに。私はいつもそうだ。
こんなこと聞いて、気分がいい人がいるわけがない。
「女は難しい」
微かに苦笑する顔に一瞬、目を奪われる。何故か、変な言葉が唯の口から漏れた。
「あはは、難しくないですって! じゃ、次は私なんてどうです? 簡単ですよ!」
「アホか、冗談にしても笑えん」
「ですよねー! 蜂屋さんが幸せになれるように祈ってます!」
「頼んだぞ」
大きな手の平が唯の頭に乗る。
ええい、やっぱりうるさい、心臓。見上げた蜂屋は口端を微かに上げる。
その時、初めて私は恋に落ちた。
長く、辛い、恋の始まりでした。