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間際

 

「春日、式場に連絡は?」

「はい。もう、終わってます!」

「じゃあ、後は向かうだけだね」

「はい! 社長は直接会場入りするそうです!」

 今日の黒子である唯は、漆黒のスーツを見に纏って、きっちりとアイロンをかけたシャツは首元までボタンが閉まっている。

 足にはもういつの間にか慣れてしまった七センチヒールのパンプス。もう靴ずれで、恥ずかしい程足を引きずることも無い。爪には今日だけは真珠色のマニキュアを付けた、せめて今日くらいはいいだろう。

 ここ数カ月ただひたすらに取り組んだ桜坂の結婚式は、いつぞやの芯谷商事記念事業パーティーと同じ会場で、懐かしいような少し気恥ずかしいような。

 あの時着ていたのは深紅のワンピースだったけれど、今日の唯はあくまで目立たずにスタッフとして裏で動く為にリクルートスーツの様な装いだ。

 乗り込むスタッフ用の白いバンにたくさんの紙物が並ぶ、唯はその段ボール横に腰掛けて動き出した車の外を見つめる。

 今朝、一言だけ蜂屋にメールをした。

『終わってから会えますか』

 返事は来ないけれど、それに不安を感じる暇はない。今日の結婚式は会社のウエディング事業の第一歩だ。唯がやらなくてはいけない事は山積みで、全ては終わってから考えることにする。

「春日、行ったらまず受付確認ね」

「はい、リストチェックに入ります」

 スムーズに交わされる業務内容の会話、ここ数カ月で広瀬にもかなり厳しく指導され唯も少しずつ使えるようになってきたと、何と無く認められつつある。

 結構それは嬉しい、大きめの仕事を任せられる度に高揚する気持ちに驚く。意外に仕事人間なのかも、と唯は最近隠された自分に気付かされた。

 披露宴はPM6:00から。昼から色々なセッティングの為に会場入りする唯の会社スタッフは総勢で20人強。ホテル側のスタッフと連携して全てをスムーズに終わらせるためには念入りな打ち合わせが必要だ。

 ホテルの従業員駐車場に停車したバンの扉を開け、段ボール箱を持ち上げて中に入る。女性スタッフの多い唯の会社は持てるものは自分で持つのが基本だ、勿論蜂屋の様に助けてくれる腕も無い。

 悲鳴を上げる程の重さの段ボール箱を唯は奥歯を噛みながら小走りで目的の場所まで運び、机の上に投げ落とす。

 大きなその音に広瀬が振り返った、折ったり破損するとただじゃおかないと脅す顔だ。唯は横を向いて肩を竦める。

 休む間もなく受付に走る。リストチェックして、取引先の中でも特殊な名前の前にチェックがきちんと入れられているかの最終確認。受付に座る人数分のリストをチェックし終わると結構な時間になっている。

 白い布の張られた受付テーブルにリストを並べて、椅子の数をチェック。ここには蜂屋を含む桜坂の同期がいてくれることになっている。取引先の顔を良く分かっている人間であれば、ホテル側が用意した人間よりも無駄は無いだろうと判断したのは唯の会社社長と桜坂の婚約者だ。

 ぐるり、辺りを見回して気になる点はないか確認した唯の視線の向こう側、正面にある階段から他の同期と話しながら上がってくるのは見慣れた人影。

 唯はスーツの前を正して、頭を下げる。

「お疲れ様です、今日は宜しくお願い致します。リストは既にチェック済みですので、一応確認願います」

「おう」

 短い返事に胸が熱くなる。今日だ、やっと今日で全て終わって、彼の元に何も考えずに走ることが出来る。

 出来るのなら傍にいたい心を叱咤して、唯は携帯電話を取り出す。電話が鳴っている、社長だ。

「はい、春日です」

 会釈をして歩きながら突き当りの丁度死角で電話を受ける、社長の到着が遅くなる。広瀬の携帯電話は電波が届かなく連絡が取れないらしい。

 唯は電話を切ると、ため息を小さくつく。だから、一緒にバンに乗ったらどうかと提案したのに。最終チェックが送れる事を広瀬に伝えなくてはならない。

 そう思って唯が振り向いた時に、思わぬ傍にいた人影に気づくのが遅れて唯は思いっきり人影に突っ込んだ。ふわり、慣れた煙草の匂いが鼻を擽る。

「悪い」

「蜂屋主任」

 同時だった声は重なって、互いに呆気に取られる。噴き出したのは唯の方が先だった。

 メールを送って既に数時間、返事は来ていない。

「メール、見てました?」

「ああ」

 また不機嫌なのかどうなのか、全く読めない。蜂屋の表情を読む機械が欲しい位だ。

「で、どうなんです?」

「どうって、どういうことだ」

 唯は携帯電話を開いて、時間を確認する。ここはとても死角になって二人きりでゆっくりできるけれど、今はそんな時間は無くて。

 ああ、もどかしい。

「主任、お話はあとでゆっくり聞きますから! 私、失礼します!」

 半ば叫びながら蜂谷の横を擦り抜けると、途端に強く引き戻された。

 強く掴まれた腕が物凄く痛い。

 でも唯が痛いと思えたのはほんの一瞬で、振り回されるように引き寄せられた蜂屋の腕の中、背中に回された手の平を認識した途端唯の唇に熱が押し付けられる。

「……んっ」

 耳に熱が籠る。

 抵抗する間もなくすぐに深く重ねられた蜂屋の唇は離され、残されたのは凄絶な微笑み。

「今日だったら、触ってもいいんだろう?」

 すぐ向けられる背に、唯は歳の差を感じて負けを認めるしか無くなる。

 手玉に取られた感じが物凄く、した。

 何事もなく受付に戻っていく蜂屋に、唯は歯を剥いて見せて広瀬のいる披露宴会場に走り込む。

 数人のホテルスタッフにタイムスケジュールを持ちながら指示していた広瀬は、会場に走り込んできた唯を見て眉を上げた。

「春日、色々運んでるんだから走るのは止めな!」

「はははははい! あの、社長が遅れるって連絡来ました! 広瀬さんの携帯電話が通じないとも」

「……あ、電源切ってた」

「……入れて置いて下さい」

 沈黙。

 乾いた笑いで場を誤魔化した唯に、広瀬が訝しげな表情を向ける。何か頬についているんだろうか、唯は両手で頬を覆って不安げな顔で広瀬を見た。

 出てきた言葉で、唯はそのまま洗面所に駆け込む羽目になる。

「あんた、口紅はみ出てるけど」

「えええええええ!」

 信じられない、後でしっかり言い聞かさなくては。



 ゴンドラもスモークもいらないと主張された為に、招待客の割には桜坂の披露宴にさほど真新しいものはなく和気藹々と時間は進む。

 五度のお色直しをした桜坂は都度華やかで招待客の眼を楽しませているようだった。

 自分なら絶対にあんな着替えたくはない、唯は重そうなドレスをみながら顔を引き攣らせる。約四時間強の披露宴で着物を二度、ドレスを三度も着替えるなんて考えるだけで憂鬱だ。

 純白のドレスが一枚と、可愛らしい色のドレス一枚かな。そんなことを考えていた唯の耳に広瀬の声が聞こえた。

 コンパクトな連絡手段から流れてくる声、次はキャンドルサービスらしい。スポットライトなどを統括する部屋に走ると、広瀬からの連絡が入る。

『春日、緊急! 新郎新婦が入ってくる予定だった場所、今ワイン溢したらしくてルート変更』

「はい! どこからにしますか?」

『二つ横のテーブルから開始するから、照明に指示して」

「はい、了解です」

 人数の多いパーティーやイベントは思わぬハプニングに見舞われることが多い。今回は結構スムーズに行ったとは思っていた筈が、やはり宴も後半に入ると酒の量も増え様々な事が起こる。

 テーブルに立っておかしなことをする人間が出ないことだけを祈る、なんていったって今日は芯谷商事のお偉い方と大型取引先の重鎮ばかりが招待客として揃っている。芯谷商事の社員も多く招待されているこの宴で羽目を外したら、確実に出世街道は脇道に突っ込んでしまうだろう。

 音響と照明を統括する部屋から出ると会場のライトが消えた、キャンドルサービスの始まりだ。ここの部分はホテルスタッフに任せているので唯は会場まで降りると、近くの壁に背を預ける。

 ライトに照らされて深紅のドレスを纏った桜坂が会場に入ってくる、物凄く幸せそうで唯もついほほ笑んでしまう。

 色々あったと思うけれど、でももういいや。とも思えた。

「いいなぁ」

 そう呟く唯の横で「そうか?」と答える蜂屋の声。

 唯が確かそろそろキャンドルが回るはずの同期の席を見ると、空席になっている。大きな音響のせいで、話し声はどうしても顔を近づけて囁くようにするしかなくなる。

「どうしていないんですか! キャンドルサービスで空席なんておかしいでしょうが!」

 囁きながら叫ぶという難しい事をやらざるを得なくなって、唯は睨みながら蜂谷を振り返る。女性の声は音響に消えやすい、蜂屋は普通の話し声でも十分唯には聞こえた。

 飄々と、蜂屋は言い返す。

「そうか? 別にいいだろう」

「駄目、ですよ! 早く戻って下さい!」

 威嚇しながら蜂谷の背中を押した唯の耳元に蜂屋が顔を寄せる。「さっき、言い忘れた」という前置きがまた実に厭らしい。


「今日は帰らないんだろう?」

 唯は返事も無しに蜂屋の背中に拳を入れた。

 

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