切実
連れ去れるものだったら、連れ去ってしまいたかった。でも、どうしても出来なかったんだ。
『元気にしてる?』
俺が入れたメールに、少ししてから返事が来た。変わらないそのタイミングに、出先周り中の背広の胸ポケットを押さえて笑う。
『元気だよ。仕事の鬼してる』
仕事の鬼って、まだ新人みたいなもんだから先輩の後ろ走りまわっているぐらいだろ。短いメールには動く絵文字入り、それも全く今までと変わらずで泣きそうなほど安堵する。
磨いてある革靴は熱いアスファルトの上で、張り付きそうな音を立てる。背広姿は熱がこもるけれど、今日は上司に頼まれた大事な取引先に行かなくてはいけない。
まさか、ワイシャツ姿で背広を持って駆け込む訳にはいかないよな。
営業課での蜂谷主任は相変わらずのふてぶてしさで、あれから会って開口一番に書類の不備を指摘された。書類を忘れた俺が一番悪いと言っちゃ悪いんだけど、ちょっとは俺の繊細な心も把握して欲しいと思う。
互いに深入りはせずに、いつも通りの仕事関係に戻る。出先を回れと言えば一緒に回るし、それは今までと全く変わらない。
仕事場にプライベートを持ちこむのは、仕事に責任感がない証拠。俺の尊敬する鈴木主任の弁。
確かに彼女と色々合った時も全く表には出さずに、むしろ激務になる位の鈴木主任が言うと説得力があるけれど、あっちの方はちょっと現実感がなさすぎるので割愛。
俺は程々に引きずって、程々に通常業務を継続中。
五年近く見詰めてきた感情はそんな簡単に制御は出来ない。
ごめんねも何も言わずにただ頭を撫で続ける春日の姿に、俯いたまま笑った振りをする。
ここが暗闇で良かった、今が夜で良かった。俺の目尻はきっと濡れていて、笑い涙だと主張してもちょっと無理があるんだ。
泣いているのを笑い声で誤魔化している俺の頭をずっと撫でる春日にはこんな情けない姿を見せたくは無くて、早く蜂屋主任の所へ行ってくれと思う。そのくせ俺は情けなくて、この手が離れるともう戻ってこないと思うと手首を掴みたくなってしまう。
春日、俺はお前の事が好きだったよ。
思い返してみれば、一度も告げていない自分の心。
今更言ってしまうのは、春日の負担になるのが分かるから言わない様にする。これから向こうに走る春日には、俺が引き寄せちゃ駄目なんだ。それくらい分かってる。
しゃがみながら噴き出すその姿。
泣きそうな顔で頷くその姿。
もう、俺から解放するから。ほら、走って行きなよ。
それじゃないと、俺は。
「春日、もう戻ったほうがいいよ」
促す俺に声に奥歯を噛み締める姿、蜂屋主任はこればかり見てきたんなら、そりゃちょっと辛いよな。
「俺が蜂屋主任なら、目の前で違う男のトコに走られるのは正直かなりきつい」
きついっていうか、その場ですぐ追いかけて男の背中に飛び蹴り食らわすよ。
「俺だったらきっと相手の男、ボコボコにするよ」
いや、違うかな。やっぱり俺でも蜂屋主任みたいに、お前の事を待つかもしれない。戻ってくると、信じてられるなら。
見上げて笑う彼女の姿が余りにも自然で、この姿は絶対に俺のものにならないんだと思う。
このまま、春日を。
春日を信じて待つ奴の元に帰さないで、俺と。
連れ去れるものだったら、連れ去ってしまいたかった。でも、どうしても出来なかったんだ。
「このままだと、俺。春日の事連れ帰ってしまいそうだ」
きっと連れ帰って滅茶苦茶にして、泣いても俺はきっともう蜂屋主任の元に戻さない。春日の心はもう守らないで、ただ俺の手元に置くだけで精一杯になると思う。
そんな縛りつけたくは、ないから。
「だから、帰って」
俺が今どうにもならなくなる前に、春日が誰のものなのかはっきりさせて欲しい。俺の前から走り去ったらもう絶対に追わないから、そりゃ心の整理にはかなり時間がかかるだろうけど何とか俺だけでするから。
春日、返事が無いのはきっと心の中でしているんだろ?
背を向けた俺の後ろで、立ちあがって走り去る音が聞こえる、躊躇なく走り始めたそれは一度も立ち止まることなく消えて行く。
完全に消えてから、しゃがみ込んで両手で頭を抱える。
「キッツイよな―……」
もう、いいよな。泣いても誰も来ないし、今日はきっと自棄酒でHDDに取り溜めたお笑い番組だけを見て過ごすことにしよう。
自棄酒で飲むのは安い酒じゃなくて、高い酒。
この焼け付く咽喉を消毒してくれるんだった、正直なんだっていい気もするけれど。
『春日、また俺達会えるよな』
送らなかったメールが携帯電話に残る。いつの日かこのメールを送らなくても会える時が来ると信じてる。
その時には俺の横には、春日じゃない女の子が立っていて俺もきっと笑っていられると思うんだ。
そんな激情にもう一度会えるんだろうか?
誰にも渡したくないっていう、この嵐のような感情がまた俺の中に戻ってくることは本当にあるんだろうか?
おかしくなるほどにのめり込む、そんな出会いがまた俺にやってくるんだろうか?
今の狂おしい想いはその時まで封印されずにずっと残るのであれば、切実に早くそんな彼女に出会いたいと思う。
そして、出来るだけ早く笑って春日に向き合いたい。
焼け付くアスファルトに革靴を叩きつけて、羽織ったスーツの中のネクタイ。首を絞める様なネクタイは昔は苦手だったけれど、今は気持ちを切り替えられて戦闘服みたいな感じでいる。
空は青空、天気は快晴。
照りつける日差しは熱く、蝉は騒々しい鳴き声を上げる。
服装に一々うるさい上司のせいでワイシャツのボタンは上までしっかり閉めて、ネクタイも絶対に緩ませずに、髪の毛も出来るだけ落ち着いた感じに。
五年前の何も手に持っていなかった俺の手には、たくさんのものが詰まっている。
営業課で書類を持って走り回る、大きめの取引先を鈴木主任に強制的に任される内に何と無く自信も出来て、会議の発言もいい加減ではなく考えながら手を上げる。
蜂屋主任にはまだ及ばないとしても、数年後には同じ舞台には上がれると思う。
これといって、したいこともなく。
ただ、今が楽しくあればいいと思い。
いつか何か劇的に変化が起こる事を、望みながら諦める日々。
そんな毎日ではもう絶対にないと、胸を張って言える。
『春日、また俺達会えるよな』
だから、早く来て欲しい。
切実に願うよ。