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36/41

主張

 仕事に休みはない。

 精力的に動くべき仕事はたくさんあって、別に桜坂の結婚式に関係ない仕事も山積みだった。夏休みに入る今時期、イベントは目白押しで子供向けや企業向けなど夏にはたくさんの依頼が舞い込む。

 大きな熊のバルーンを持って、イベント会場を走り抜けながら唯は流れる汗も拭わずに先輩の待つブースへ走る。

 明日予定されているイベントの最終調整は連日過酷を極めて、昨日を含める三日間帰宅は午前様だ。食べるコンビニ弁当にも流石に飽きがきて、最近は弁当を持ち歩くようになった。勿論、蝉鳴く今時期は保冷剤と冷蔵庫が欠かせない。

 腰につけてある作業用のベルトには無理やりペットボトルを突き刺した、水分不足は今時期一番怖い。

「春日! 早く、こっち!」

「ははははいっ! もうこれ持ち辛くて……」

 携帯電話は鳴らないし、鳴らさない。でも履歴にはしっかりと蜂屋との跡が残っている。また戻るためにはやらなくてはいけない事が、自分にはある。

 明確な目標が、自分にはある。

 持ったバルーンの端を踏んで転びかかり、転びかかった自分より一つしかないバルーンの心配をされた。割れなかったから良かったものの、割れていたら先輩からの怒鳴り声がこの場所で飛んだだろう。

 無邪気な熊のバルーン。唯の午前中の仕事はこれで終了して、イベント会場にほど近い自分の部屋に戻るとシャワーを浴びてまた出勤しなくてはいけない。

 汗を流して着替えるのは、濃紺のスーツ。暑い中本当に面倒だけれど、今日は桜坂との打ち合わせの為に広瀬と桜坂の婚約者の会社に行かなくてはいけない。

 まさか、この埃っぽくてバルーンと同じ熊の絵が付いているTシャツを着て、あの会社に入って行くことは出来ない。

 あの場所は、仕事場であり決戦場でもある。逃げるわけにはいかない、二カ月後に必ず蜂屋の元に戻るためには。

「こんな、感じですかね!」

「ま、……いいか! 春日、もうシャワー浴びに行かないと間に合わないよ」

「うへ! 春日、行ってきます!」

「走るなよ、転ぶから!」

「はーい!」

 イベント会場は明日オープンなだけあって、スタッフで溢れかえっている。明日の朝には夏休みだけあって家族連れで出入り口は溢れかえるだろう。

 きっと自分たちが用意したブースでも、新商品を持って騒ぐ姿が見えるようだ。これからチェックにやってくる企業側のクライアントの対応を先輩に任せて、唯は炎天下の中自分のアパートに走る。



 頭に被ったキャップに日射しが突き刺さって、唯の二の腕はじりじりと焼けているようだ。

 荒れていく息は熱い空気を唯の肺に取り込んで、体中を熱くさせる。

 空は青空、天気は快晴。

 照りつける日差しは熱く、蝉は騒々しい鳴き声を上げる。

 アスファルトで反射するうっそうとした熱さを振りきって、走ること七分ほど。

 唯は慣れたアパートの階段を駆け上って、締めきった自分の部屋に飛び込む。

 裏返しになったスニーカーをそのままにして、部屋の窓を開けてからカーテンを締め風呂場に飛び込んだ。

 二階の真ん中の唯の部屋では、流石に日中壁を伝って忍び込んでくるつわものもいないだろう。頭から冷水に限りなく近いシャワーを浴びれば、水に濡れた唯の髪の毛から埃っぽい臭いが立ち上る。

 乱暴にシャンプーを付けて髪の毛を洗って身体の汗を流すと、十五分はたっていた。時間が無い。

 乾かした髪を高く結い上げて、化粧をし直す。

 一瞬気にとまった短い爪は、汚れていないのを確認してそのままに任せる。

 桜坂の細く整った爪にはいつも真珠色や薄いピンクのマニキュア、唯の爪は短い。でもそれが私だ。

 私は私で、桜坂は桜坂。洗面所の鏡を見て、最終チェック。

 口紅も薄く付けて、鏡の自分を睨みつける。

 逃げるわけにはいかない。もう泣いて背を向けていては、蜂屋に戻ることはできない。

 書類の入る大きめの色気ないバッグを引っ掴んで、唯は七センチヒールのパンプスに足を突っ込む。初めて履いた時は靴ずれをして酷い目にあった、でも今はその背筋が伸びる感じの力を借りたい。

「行ってきます」

 誰にともなく、部屋の中に呟くと唯は部屋を見渡して少し奥歯を噛む。

 会いたい。

 ともすれば泣きそうになるのを、唇を噛んで耐えて唯はドアを乱暴に閉めた。

 そのために、今私は動いている。



「春日、今日持ってきたファイル出して」

「はい! これです」

 大きなファイルの中身は打ち合わせの度に厚く重くなっていく。二度目の話合いは先日の招待客リストを使った席次の件。取引や親交など絡み合うものは企業が大きければ大きいほど難しくなり、チェックは何度も入る。

 ここでチェックを終えたらファイルは唯の会社の社長のチェックを回って、芯谷商事の上層部を回る。もうパーティーは千人規模になりそうな勢いだ。

「この間入れて欲しいって言ったここの会社の社長なんだけど、今回ゴタゴタあって取引終了したから急遽だけどカットして貰えるかな」

「じゃあ、この席は空きますね。どこの会社の専務を入れるか、もうちょっと検討した方がいいような気がします」

「……そうだね。この席は微妙かな」

 社長に確認を取りながら返事をする広瀬と桜坂の婚約者との話し合いの中、ソファーの後ろでファイル指示にいつでも対応できるように待機していた唯は静かにドアを開ける桜坂に気付く。

 唯が会釈をして見せると、桜坂はほほ笑んで中に入ってくる。今日の服装も華やかでとても似合う、唯のスーツはまるで新入社員の様に見えた。

「遅くなりました、今日もよろしくお願いします。広瀬さんと春日さん」

 丁寧に挨拶して見せるものの桜坂が唯に向ける視線は相変わらずだ、前まで感じた気さくな空気は一変して挑みかかるような圧迫感が苦しい。

 唯はファイルを両手で掴む。

「春日さん、手伝ってくれる?」

 婚約者に頼まれたファイルを取りに行く桜坂が唯を呼んで、唯は混んだ打ち合わせに入った広瀬の肩に触れると短く「行ってきます」と伝える。片手を振って応じた広瀬と婚約者に小さく頭を下げ、唯は先に部屋を出た桜坂を追った。

「ごめんなさいね、一人では持てなくて」

 そう謝る桜坂に微笑んで見せる。

「気にしないでください! 力仕事ならお手の物です!」

 明るく返すと少し勢いに押された様に桜坂が押し黙った、その姿には気付かない振りで唯はスーツの袖を捲る。

「さ、どこにファイルがあるんですか?」

「案内するわ」

 短い返事は少し不機嫌そうだ、唯はまだ慣れない絨毯の廊下を駆ける。ヒールパンプスが毛足の長い絨毯に絡んで少し不安定で、出来るだけ突き刺すように歩いた。

 突き当り奥の部屋にファイルは収納されていて、取引先の情報が全てここに集約されているようだった。唯は芯谷商事の庶務課横にある書庫室とはまるで様相の違うその部屋をぐるり見渡して、大口を開ける。

 書庫にシャンデリアって趣味が悪いような気がする。

「春日さん」

 桜坂の声が呆気に取られる唯の背中に突き刺さる。その声は何度か聞いたことがある。


 そう確かあれは初めての顔合わせを兼ねた打ち合わせの時、日本酒で酔っ払った唯を抱いて蜂屋が帰ろうとした時だ。

『でも、会社の人もいるんでしょう?』

 それとついこの間、芯谷商事本社前で偶然会った時。顔色の悪い唯を心配して、蜂屋が桜坂に先に行くように促した。その時の声も少しかん高くて、苛ついた声だった。

『え? 貴方の出先なのに、私一人で行けってこと?』


 唯が振り返ると桜坂の刺すような視線とぶつかる。この人は全部手に入れないと、納得しない人だ。

「はい、何か」

 聞いた唯に向かって華の笑顔、ただ眼は笑っていない。決して。

「明後日、同期の打ち合わせがあるの。あなたは来ないの?」

「いえ、桜坂さんの同期との打ち合わせはもう少しあとになります。今のリストを作り終えてからじゃないと、受け付け関係は打ち合わせできないので」

 淀みなく言い返す。

 蜂屋と一緒だと、暗に言いたいのは分かっているけれどここで負けるわけにはいかない。

「あら、残念ね」

「桜坂さん」

「何かしら?」

 言いたいことがある。

 声を唯が敢えて低くすると、桜坂のほほ笑みが消える。この人は依頼主クライアントだ、念頭に入れて言葉を選ぶ。

「私達は貴女方の結婚式を、企画しに来ています。結婚式で主役になられる御二人が幸せで喜びに溢れる日々を送る為の出発のお式を造る為に、私達は日々頑張っています。何か、勘違いされていませんか?」

 言い返した唯の声に、桜坂の眉が寄る。

「あなたと蜂谷はもう終わった筈です。ご自分のお相手ならいざ知らず、所有権を誇示されるのは間違っています」

 口を開こうとした桜坂を、唯は睨み付ける。

「彼は私のものです。あなたは自分の結婚式の事だけを考えて下さい」

 奥歯を噛み締める音が聞こえるようだった。

 もしかしたら桜坂が蜂屋と別れた時、嫌いで別れた訳ではなかったのかとも思った。もしかしたらそれは余りに人の気持ちに鈍感な蜂屋の態度が不安で、ただそれだけで試すように勢いで別れを告げてしまったのかもしれない。

 それ程に彼女の蜂屋に対する執着は強く、自分の結婚が決まった今でも心を捕えて仕方がない。

 それはただ唯の予想でしかなかったけれど、それであれば全て決着がつく。

 でも、その桜坂の悲しみも執着も今の私には関係のない事。

「必要なファイルを出して下さい、私が全て持っていきます」

 桜坂はノロノロと棚に向かって、数冊の分厚いファイルを出した。さほど厚くはない、持てないというのは唯と二人きりになる口実だったようだ。

 桜坂を見ると同情してしまう、私もあなたも互いに同じ男に悩まされる。ただ私は絶対にあの人の元に戻るの。

「時間が必要ならここにいらっしゃっても結構です、私が誤魔化しておきますから」

 ファイルを両手で持った。唯は扉を閉める寸前に部屋の桜坂に視線を流した。

「……ごゆっくり」

 返事は、無かった。

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