疾走
でも好きなのは、本当なんだよ。本当に好きなんだよ。
アパート前で煙草を吸っていた蜂屋は路地から出てきた唯に最初視線を止めて、その後木坂に視線を移した。
無表情なのがこれほどもどかしく思った事は無かった、そう唯は思う。それ程に薄暗い夕闇の中という条件以上に、蜂屋の顔には怒りも悲しみも何も見えない。
メールが何度も来ていたのだからこういう事態は想定しておくべき事だったのに、すっかり忘れていた自分が悔まれた。今日は会いたくない、一瞬でも思ってしまった。
「春日」
凪いだ声で、蜂屋が唯を呼ぶ。
その声はそのまま「体調は」と続いた。やっぱりかなり心配させていたらしい、唯は蜂屋の眼を見ることも出来ずに小さく首を振る。
「大丈夫、です」
「そうか」
車から引き抜いたらしい灰皿に吸っていた煙草を押しつけると、蜂屋は背広の胸ポケットから携帯電話を出して、一度開く。
鳴らさなかった携帯電話、唯は両手で抱えたバッグを強く抱き締めた。
「心配した」
その蜂谷の声に泣きそうになった。
深く俯いて奥歯を噛む唯の腕に軽く木坂が触れて、一歩前に出る。どうやら自分を責めるな、ということらしい。
先程の胃痛の事を蜂谷に話す気なのではと思い慌てて、前に出た木坂の腕を掴むと唯は首を振った。木坂が不満げな表情を向けてくる。
その遣り取りを見て、初めて蜂屋が動いた。
無言のまま大股で唯に歩み寄ると、少し強引に唯の腰を引き寄せる。
「木坂、送って貰って悪かった。もういい、帰れ」
命令するようなその蜂谷の言葉に、今まで終始蜂屋には無表情だった木坂が少し眉を上げる。
「帰れ、って随分な言い方ですね」
変わらない軽い口調を装って、木坂が言い返す。
いつものふざけて言い合いしているような空気ではなく、緊迫して張り詰めた空気に唯は一度蜂屋の顔を見上げてから木坂を振り返った。
怯えた唯の表情を見て、目が合った木坂が苦笑して見せる。
いつもは冷たい蜂屋の手の平が、熱い。
無言のまま蜂屋は返事を返さずに少し身長の低い木坂を見下ろして、そのまま数刻。永遠かと思われた時間の後、木坂が小さく吐息ついた。
蜂屋に引き寄せられたままの唯に、大丈夫とでも伝えるつもりなのか、苦笑すると小さく頷いて半身身体を引く。
「帰ります」
「……ああ」
短いやり取りの後、木坂は振り返りもせずに路地向こうに消えていく。唯は腰から手を離さずに路地向こうを見遣る蜂屋を見上げた。
蜂屋は、唯の方を見ない。
だって、木坂は何も悪くないのに。
ただ具合が悪くなった自分を、勝手に蜂屋に言うなって言った自分をかばってくれて。
まだ、ありがとうも言ってない。
木坂の背中が路地向こうに消えて、唯は反射的に蜂屋の腕から抜け出す。そのまま、駈け出した。
「蜂屋主任! すぐ戻ってくるから!」
振り返って、蜂屋にそう声をかける。
顔はもう落ちた暗闇のせいで、見えなかった。
木坂のアパートに向かう路地は覚えている。
新人の頃から木坂と良く飲みに行くようになって何度往復したか分からない路地、高いコンクリートの壁はどれも似たようなものでいくら景観を合わせるとは言っても迷路みたいだ。
木坂の足は思ったよりも早く、唯は全力疾走でやっと追い付く事が出来た。
慣れない全力疾走で呼吸が荒れて、声が出せない。
やっと近くまで走り寄って、足音に気付いた木坂が立ち止って追い付けた。腕に抱きつくようにして、しがみ付く。
「春日?」
「……や、っと、追いつい、たぁ」
そのまま腕を掴んだまましゃがみ込むと、木坂もその場にしゃがみこんだ。
暗闇の中、しゃがみ込む二人の姿はとても滑稽で、唯はそのままコンクリートに腰を下ろした。尻の下でコンクリートの上に残った土が、ざらりと音を立てる。
「早いよー! まだありがとうって、言ってないのに!」
「……春日、馬鹿だな。蜂屋主任を置いてきたら駄目だろ」
呆れた表情に、唯はまた泣きそうになる。
「……っ、本当に」
掠れた木坂の声。
だって、迷惑ばっかり掛けて、お礼も何もしないって人間として駄目じゃないのさ。
そう、思っているのに声が出ない。
目の前の木坂は唯と同じように泣きそうで、唯はコンクリートに付いた手を一度見て土を払い落すとそろそろと木坂の頭を撫でた。
木坂に噴き出される。
「春日に慰められるようになったら、俺も御仕舞だって」
しゃがみ込んだ膝の間に木坂は顔を落として、肩を震わせて笑った。頭を撫でる唯の手を振り払うことなく、木坂は大人しく笑い続けて唯はただ頭を撫でる。
ごめんね、木坂。
そう、言うのは簡単だけれど口には出来なかった。
ごめんね、木坂の事好きだけど。
本当に好きなんだけど、それは蜂屋主任とはやっぱり違う好きなんだ。
でも好きなのは、本当なんだよ。
本当に好きなんだよ。
ただ笑い続ける木坂に、せめて欠片でも届いてくれるように祈る。撫でた手はもう重くて辛かったけどそれでも笑っている間は撫でていてあげたかった。
「春日、もう戻ったほうがいいよ」
どれくらいそうしていたのか、撫でていた唯の手首を柔らかく取った木坂は俯いた唯の顔を覗き込む。
覗き込んだ木坂の表情はいつも通りで、唯は息苦しいのを奥歯を噛み締めて耐えた。
微妙な笑顔。失敗してそれしかできなかった唯の頭に、次は木坂の手の平が乗る。
「俺が蜂屋主任なら、目の前で違う男のトコに走られるのは正直かなりきつい」
分かってた。
「俺だったらきっと相手の男、ボコボコにするよ」
殴るポーズを取って見せる木坂を見て、唯は噴き出した。
わざと明るく言って見せているのが分かったから、唯も敢えていつも通りにして見せる。
本当に、私達は器用なようで不器用だ。
「春日」
急に真顔になった木坂が立ち上がって、そのまま背を向ける。
しゃがみ込んだまま、唯は見上げる。そうして欲しいんじゃないかと、思った。
「うん?」
「このままだと、俺。春日の事連れ帰ってしまいそうだ」
うん。
「だから、帰って」
うん。
泣いちゃ駄目だ。
そう言い聞かす。
そのまま無言で背を向けて、きっと待っているだろう蜂屋の元へ唯は走りだした。
でも好きなのは、本当なんだよ。本当に好きなんだよ。
ただ、蜂屋主任とは違うだけなんだよ。
奥歯を噛み締める。
アパート前で、蜂屋はただ立って待っていた。
唯は路地を曲がってその姿を確認すると、立ち止ってその姿を見つめる。やっぱり、何も感情は読めなかった。
「蜂屋、主任?」
泣きそうなのを誤魔化してせいで唯の声は小さく掠れていて、声が届いたかどうか自信が無かった。暗闇の中、街灯はアパートと少し離れていて蜂屋が顔を上げたかも分からない。
コンクリートの塀に背中を預けたままの蜂屋は、もしかしたら置いて木坂を追った唯に対して思う所があるのかもしれない。
そう思うと、もう一度呼ぶ事は出来なかった。
本当に、私達は器用なようで不器用だ。
「春日?」
声が少しして、返ってきた。やっぱり聞こえて無かったらしい。
呼ばれても唯は近寄る事が出来ずに、路地の手前でただ立ち尽くす。そんな唯を見て、蜂屋が近寄ってきた。
少しずつ近づく度に、輪郭がしっかりしていく。いつもと何ら変わりのない、まるで先程腕を振り払らわれたのだとは思えなかった。
何が起きたのかは全く聞かずに蜂屋はそのまま唯を柔らかく抱き締めて、唯はそのまま胸に顔を預ける。「ごめんなさい」震える声で、唯が呟くと蜂屋はただ背中に回した腕を一層強くする。
もう言わないといけないんだ、と思った。
もう壊れそうな心をただ守ってくれる木坂はいない。
「蜂屋主任、話が」
「ああ」
すぐに腕を離した蜂屋は背中を向けて、唯はバッグから部屋の鍵を出した。
もうそろそろ、無音の「 」
私は何か、入れるべきだ。