助走
忘れていたと説明して、誰が信じると言うんだろう?
「……ん」
目覚めた場所は見慣れない天井で、随分とすっきりした頭を小刻みに振った。体を起こすと、胸に掛かった薄い布団が滑り落ちてベッドから落ちそうになったそれを慌てて掴む。
見渡した部屋は小さく、誰もいない。
申し訳程度に付いた換気用の小窓は外がもう暮れかかっている事を知らせてくれる。橙色の空は、どうやら夕暮れらしい。
医療棚とパイプベッド、使った事はないものの本社の二階にある医務室へと木坂が連れて来てくれた事を思い出す。
そうだ、木坂はどこに行ったのだろう? そう考えてみてから、まさか勤務中に仕事を放って自分に付いていられる訳も無く、頃合いを見て仕事に戻ったのだろうと考え直す。
起きたことだけでもメールで知らせておかなくては、そう思って携帯電話を開いた時、医務室のドアが開いて木坂が顔を出した。
ベッドの上で体を起こしたままの自分の姿を見て、木坂は安堵した表情をして顔を覗き込んでくる。
「あ、起きた? どう? 痛みは」
そう言われて思い出した腹の痛みは押さえても何でもなく、唯は小さく首を振って見せた。
咽喉が渇いて一度咳払いをすると、唯の眼の前にポカリスエットのペットボトルが突き出される。
「喉、渇いてるんでしょ」
物凄く乾いていた。
「ありが、とう」
掠れた声で礼を言って、キャップを開ける。一気に流し込むと体が潤って行くのが分かった。
そこでやっと目が覚めた気がして、唯はベッド脇に立つ木坂を見上げる。
「……今、何時? どれくらい、私寝てたの?」
「六時間かな、今はPM6:30。もう定時過ぎたよ」
目を見開いた。
「えええええええええ! そんなに寝てたの!」
「まぁ、そうなるね」
おかしい、絶対におかしすぎると思う。まぁ、ここ数日は少し寝不足気味で胃が病む事ばかり多かったけれどでもここで爆睡ってどうなの?
唯は慌てて起きあがると布団を畳み始め、ベッドから降りて立ち上がると途端に眩暈がした。木坂の腕がすぐ伸びて、唯の腕を掴む。
即、背中に手を回されて、ベッドに座るように促された。
何か介助されてるみたいなんですけど、気分は微妙。
「春日、さっきまでかなり胃痛がひどかったんだから無理しない方がいいよ。帰りは俺が送って行くから」
もう仕事終りだったらしい木坂は、バッグを持って医務室に入って来ている。
まずは会社に連絡をしなくては、と携帯電話を開けた唯はメール受信ランプと着信ランプに気付いた。
メールは二件、着信は三件。全て蜂谷からだ。
唯は画面を見たまま押し黙る。おさまったはずの胃が熱を持ってくるような気がして、素早くメールの本文を読んだ。
PM1:20 『どうした』 PM3:45 『今どこだ』
どちらも短く真意は読めない。ただ心配しているのか、それとも連絡を寄越さないのに苛ついているのか。
唯は返事に悩んで、ひとまず一度携帯電話を閉じた。
出来るのなら、会いたい。
でも今日は何故か、疲れきっていて蜂屋の前で上手く笑えないような気がした。あの擦れ違いざまの桜坂の眼が、変に記憶に残る。
打ち合わせはこれから何度も続く、同期同士の打ち合わせの度にこんな胃をおかしくしていたら逆に蜂屋の方が気を使ってしまうだろう。
こんなんじゃ駄目だ。
「春日」
低い木坂の声が唯を呼んで、唯はベッドに座ったまま木坂を見上げた。木坂は神妙な顔をしていて、逆にこっちが緊張した。
しゃがみ込む大きな体、こんなに木坂は大きな人だっただろうか?
下から覗きこまれるのは、とても不思議な感覚だった。
「我慢するのはいいけど、本当にそれがいい方向なの」
聞き覚えのある言葉だった。
ああ、どこかで聞いた気がする。でも思い出せなかった。
唯は数秒間記憶を辿り、思い出せないのを知ると首を傾げて見せる。気のせいだったんだろうか?
首を傾げただけで細いパイプベッドがみしりと軋む音をたてて、唯はその少し錆びたパイプを見遣った。
「どうして、我慢しちゃいけないの?」
聞くその言葉にも、何故か覚えがあった。
木坂はスーツの膝が汚れるのも気にせず床に膝をついて、唯の両手を掴む。
貧血を起こして冷たくなっている唯の手には温かい木坂の手は思いの外心地よく、振り払う事は出来なかった。
唯の質問に、木坂は少し言い淀む。
そんな木坂に唯は、質問を重ねた。
「どうして、頑張ろうって思うのがいけないの?」
ああ、この言葉も言ったはずだ。
そして、この言葉に言い淀みながら言われたんだ。
そう、前の仕事で揉めた時に『両親に』
木坂に言われて、気付いた。
「思い切って止めるのも、選択のうちなんじゃないの?」
ああ、そうか。この言葉も母親に言われたんだ。見てられない、そう訴えられた。
あの時の様に私はきっとどこか壊れかかっていて、木坂は両親の様にそんな壊れていく私を見ていられなくなっているのかもしれない。
木坂の膝がこちらを向いている。
それも覚えがあった、あの時唯は実家で心配する両親と膝を突き合わせて話し合った。
そう、今みたいに母親に両手を握られて。
その時は、両親に悲しんで貰いたくなくて結局頷いた。
「嫌」
「春日」
「絶対に、嫌」
奥歯を噛む。
あの時のようにもう諦めたくなかった、あの時本当はあの会社を辞めたくはなかった。イベントの仕事はやりがいがあって、凄く楽しかった。ただ本当に仕事仲間とだけ揉めなければずっと続けていきたい仕事だった。
あの時、彼女が出来た男友達もそうだ。
本当は彼女になりたかった、もう遅くても泣いて縋り付きたかった。あんなわざと明るくふざけて応援なんてしたくなかった。
私の「 」はいつも無音だった。
「春日、もう自分だけで解決するのは無理だ。蜂屋主任に相談した方がいいよ」
「嫌、迷惑掛けたくない」
「春日、じゃあ」
木坂の言葉が止まって、しゃがみ込んだ木坂と視線が絡み合う。もう笑ったり誤魔化したりして悩む自分の心を隠す事も出来なくて、唯は笑うことも出来ずただ木坂の感情の無い視線を見つめ返す。
唯の両手を握る手が、少し強くなっていくのも振り払う事が出来ない。
長い数分だったと思う。
こんなに長く木坂と見詰め合ったのは初めてかもしれないと、少し唯は思った。
継ぐ言葉が木坂から出てくる事は無く、木坂は一度大きくため息をついて立ち上がる。手が離れた。
「春日、帰ろう。タクシーでいいよね」
無言で頷いた。
携帯電話の着信の事は、すっかり忘れていた。
終業時間すぐの芯谷商事本社前は、比較的タクシーをすぐ捉まえ易い。
正面少し離れた所に何台かタクシーはいつも通り客待ちをしていて、唯と木坂はすぐ乗り込む事が出来た。少し煙草の臭いが強く残る座席に乗り込むと、唯は大きく吐息ついて背中を預ける。
木坂に促されてアパートの住所を伝えると、タクシーは少し混雑した街中を走り始めた。
医務室では橙色だった空はもう既に群青色が覆い隠し、既に街灯がぽつぽつと点き始めている。
対向車線を走る車のヘッドライトに眉を顰めれば、木坂が具合が悪いのかと覗き込んだ。
「大丈夫、さっきの車が眩しかっただけ」
返した唯の声は、少し硬い。
木坂もそれ以上は追及せずに、ただ無言でタクシーは街中を進む。
会社には直帰する旨連絡すると、昼過ぎには庶務課の方から唯の会社に連絡が行っていたらしかった。もしかしたら医務室に向かう途中に鈴木に会ったから、機転を利かせてくれたのかもしれない。
差し込む痛みだった腹部は今はまだ薬が効いているのか全くやみもせず、唯は明日にでも市販の胃薬を買ってくるつもりだった。
自然治癒を期待するのは、無理だろう。
「春日? 起きてる?」
窓に傾いて考え事をしていたら、木坂がバッグを抱く唯の指に触れた。
「ん、起きてるよ」
「具合悪いんだったら、無理すんな」
「……大丈夫」
触れられた指をそのままにして、唯は短く答える。
どれだけ心配させればいいんだろうか?
蜂屋とは全く違うはずなのに、傍にいると妙に安心した。きっと悪くて汚い所ばかりを、いつも木坂には見せているからかもしれないと思う。
泣きそうになると、いつも一番先に駆けつけてくれるのは木坂だった。
仕事中にきつい上司に怒られて文句を吐き出せない時に、突っ込みながらも愚痴に付き合ってくれたのは木坂だった。
良く食事にも行って、飲みにも行って、馬鹿をやったりおかしなことをしたり、まるで兄妹のようで、でもそこまで割り切ってもいなくて、本当に不思議な関係だ。
もし、好きになったのが木坂だったら違ったのかな?
こんなに苦しい気持ちも無くて、安心して受け止めて貰えたのかな?
無言で木坂を振り返ると、視線が合って木坂も唯の方を見ていた事に気付く。
「何?」
聞いてきた木坂から視線を逸らして、唯はまた車の外を見る。
「……何でも無い」
見慣れてきた風景でアパートが近づいて来ている事に気付いて、唯はタクシーの運転手で突き当りを曲がるように声を掛けた。
細い路地はいつもとは違う場所に入ったらしく、丁度アパートの裏側にタクシーは停まった。ここから先は少し細すぎて、車は入る事が出来ない。
いつもであれば正面に停めて貰うのだけど、方向転換して帰って貰うしかない。
唯は財布を出そうとすると、木坂に止められた。タクシーチケットを鈴木に預かって来たらしい、本当に抜け目のない人たちだ。
下りようとする木坂を、唯は制止する。
「あ、いいよ。もうすぐそこだし」
「いいよ。俺も、下りる」
頑なな木坂の態度に、唯は小さく頷いて先に車の外に出た。
木坂のアパートはここから遠くはない、歩いて帰ってもさほど時間はかからないだろう。
木坂が小さく頭を下げて降りると、タクシーはすぐに動き出した。細い路地でUターンをするのは大変らしく何度か繰り返して路地向こうに消えて行くのを見送る。
「いいのに、下りなくて」
「春日、階段から転げ落ちそうだから。一応階段上がりきるまで見送ることにする」
「……いや、なんか複雑だわ」
少し無理をしたいつもに似た会話をして、向かい合って少し笑う。薄暗いこちら側路地のアパート周りは薄気味悪くて、付いて来てくれたのは正直嬉しかった。
いつもの路地に出た時に、唯は唐突に思い出す。
メール着信『今日、時間開けろ』
メールは二件、着信は三件。
PM1:20 『どうした』
PM3:45 『今どこだ』
忘れていたと説明して、誰が信じると言うんだろう?
だって彼がここに来るなんて、そこまで心配してるって思わなかった。