微動
その人に、次に会ったのは、その1週間後でした。
「おう、ファスナー」
物凄く、庶務課の先輩と課長に怒られた。同じフロアにある営業課に頼まれていた物を発注するのを忘れて、今日営業課からの問い合わせでそれが発覚したからだ。
会議室で課長にこってり絞られて、直接営業課に謝りに行く途中だった。少し鼻をすすりながら代用品を持って重い足を唯は引きずって歩く、フロアで給湯室を挟んですぐ横にある筈の営業課は遠く、天気がよく突き当りにある休憩室の窓から差し込む日射しのせいか一際眩しい。
芯谷商事本社ビルの7階に、芯谷商事の営業課はある。花形の部署らしく、勤務する社員は仕事ができ語学も堪能なエリートだ。目指すのは専務か常務。成績と勤務態度で査定は決まる、査定次第でどこまでも登っていける男社会だ。
ただ、眩しくただひたすらに華やかな営業課とは対照的に、常に部署に籠りPCや部品の帳簿と向かい合う庶務課があった。唯は先日、その庶務課に配属された。
たった1週間でもう既に少し薄汚れた社内用のサンダルを引きずって、唯が重さに横揺れしながら歩く。中に入っているにはまだ新参の唯にはよく分からないけれど、何かに専用に使う新しいファイルらしい。リングがぶつかって金属の軽い音を立てる箱の中身は、一つ一つは軽いはずだけれど30セットもあるとかなり辛い。
だって先輩に分からないから教えて下さい、って言ったら先輩が「ちょっと待ってて」って言ったはずなのに。それからそのこと自体を忘れた唯が悪いから、言い返すことも出来ない。手に持った段ボール箱が突然より一層重くなってきているように感じる、指が痛い。
そんな時に、話しかけられた。
「何ですか、そのあだ名は」
「今日は?」
大体、人の顔を見るなり、まずファスナーの心配ってどうなの?
「今日は、閉まってます! 変態ですか!」
「……違う」
「変な沈黙は止めて下さいってば……」
言い返した唯に仕事途中出先からの帰りらしい蜂屋は、少し口端を上げる。
あ? もしかして判別しづらいけど笑った? 何だ、この人。変な人。
唯は段ボール箱を持ったままの肩を蜂屋に当てて突っ込んで見せる、見たままの筋肉質な腕に跳ね返された。
「庶務課の春日 唯です! よろしくお願いしますね、えーとセクハラの……」
大きな手の平で頭を軽く叩かれる。うわ、手が物凄く大きい! 唯は想像以上の手の平の圧力に無理やり俯かされる。蜂屋の手はすぐに外された。
「セクハラは無いだろう」
「蜂屋」
無愛想に言い放った蜂屋は、背中から掛かった声に顔を上げる。唯もその蜂屋の広い肩越しに覗き込んだ。書類を片手に何とも形容しがたい容姿の整った男性社員が歩いてくる、ふと視線があった。
笑顔が綻ぶ? いやそれとも違う、正直あまり近寄らない方がいい警報が唯に聞こえる。これは、絶対に泣かされそうなタイプだ。
「初めまして、庶務の新人さん? 営業課の鈴木です」
鈴木と名乗った営業課の男性社員は、その聞き慣れた名字とは全く比例しない非平凡な容姿を輝かせて唯の段ボール箱を受け取る。
突然、手が軽くなって唯が慌てた。
「あ、あの! 大丈夫です! 自分で持ちます!」
「いいよ、庶務課の発注ミスの代用品でしょ? 蜂屋、普通女の子が段ボール箱持ってたら受け取らない?」
鈴木の問いに、蜂屋が軽く首を傾げる。
「いや、余りに似合ってたから違和感無かった」
「どんな女ですか! 私は!」
つい、唯がそんな蜂屋に突っ込みを入れる。少し心が軋む音がする。また、女だてらに怪力とか言われるんだ、唯は慣れている。
笑って突っ込む唯の方を見ないままで、蜂屋が段ボール箱を持った鈴木から書類を受け取る。書類に視線を落とした蜂屋は書類の内容が難しいのか、それとも唯に答えるのが難しいのか、短く硬そうな黒髪に手を掻き入れ、無骨に言う。
「持って欲しいなら、言え。分からん」
「蜂屋、察した方が俺はいいと思うよ」
「俺はお前と違う」
この二人、仲がいいな。話について行けなくて唯はただ取り残されて、立ち竦んでいる。ここは笑ったまま空気読んでいなくなった方がいいかな。慣れた感覚が唯の背中を押した。
「じゃ……」
「聞いてるのか」
そのまま会釈をして通り過ぎようとした唯の視線と、蜂屋の視線が合う。胸がざわついた。鈴木はそのまま段ボール箱を持ってその場から去っていくのが唯に見える。
空気を読む、その行動はさりげなくて、流石の唯も驚いた。
視線が合ったままの蜂屋から、唯は敢えて視線を外す。直視は苦手だ、心がばれるから。
「何ですか、怪力ですから大丈夫ですよ!」
保険を掛ける。わざと明るい声、力こぶを作る仕草、言われる前に先に気配を読む。いいことなのか悪いことなのか、それは唯の特技だ。
次いで、笑わせようと唯の口が動く。
「もう2つ位、実は持てたくらいです!」
私の心の中には「 」がある。
助けて、気付いて、という言葉が時にはその中に入って消えて行く。
「蜂屋さんも、重かったらぜひ声をかけて下さいね!」
私の心の中には「 」がある。
わざと入れないその空白は、自分と人との距離を作るためにある。
「 」飛び出した声は、どこに行くんだろう。
「 」きっと、もう私の近くにはいないんだろう。
「あ、もう営業課に謝りに行かないと! もう私ってば失敗しちゃって」
笑って誤魔化す唯に蜂屋は何も言ってこない、少し焦った。「やっぱ、唯はそうだよな」とか「そういう所明るいから話しやすい」とか「じゃ、気にしなくて大丈夫だよな」とか、いつも返ってくるはずの返事は無い。
あれ、この人。変な人。慣れない反応に、心臓の動悸がうるさい。
そうだ、逃げよう。体勢を整える、条件を揃える。臆病な自分が顔を出して、いつもの明るい仮面を強引に被った。
明るく、話しやすく、それでいて打ち解けやすい私。
「じゃ、私もう行きますね! 蜂屋さん」
「ん」
その唯の声に蜂屋は短く返事をしただけだった。
振り向かずに、営業課に駆け込む。
心臓がうるさい。少し、黙ってて。