奔走
貴方に会って、私の世界は変わったの。何を犠牲にしたとしても、手だけは離さない。
唯は濃紺のパンツスーツで街中を歩く。七センチのヒールがアスファルトにぶつかり小気味よい音を立てて、妙に大人っぽくなった気がして嬉しい。
真夏の日差しに色濃いスーツは熱気が籠るのが少々難点だが、久しぶりに向かう芯谷商事本社の事を考えると足も軽くなる。
今日は桜坂の件ではなく、庶務課からの依頼で上司に今日の仕事を変更して貰った経緯もあって、ただ片岡と話せる今日はスキップしたいほどの唯の浮かれようだ。
昼時なのも良かった、時間が合えば蜂谷や木坂とも会えるかもしれない。先程喜んでメールした蜂谷からの返信は、忙しいらしくまだ無い。
唯と片岡が四月前にしていた書庫の整理が発端だった。設計課が探していた書類が見当たらなく、庶務課に話が回ってきたものの全員で探すには時間も無く片岡一人で帳簿を照らし合わせるのも時間がかかる。自分でやったことには責任を取れ。何と無くいちゃもんにも感じる庶務課課長の言葉だが、ここ最近神経が張る仕事ばかりを繰り返してきた唯には救いの手に見えた。
相変わらず不定期な連絡の蜂谷は最近の激務を考えると仕方ないとは言え、不安が募る。
簡単な事が上手く出来ないのは、お互い様だ。
今までずっと定期的な連絡も逢瀬も自主的に動く事は無かった。ただ偶然と必然を混ぜ合わせて作るきっかけだけで、五年以上も過ごしてきた。
今更毎日メールが欲しいとか、毎日声が聞きたいと思うのはおこがましい事なのだと、せめて気持ちがこちらに向いている事だけでも感謝しなければと卑屈な気持ちになってしまう。
でも、今日は会えるかもしれない。
Tシャツ姿の蜂谷も勿論好きだが、スーツ姿が蜂谷には一番似合うと思う。広い肩幅と筋肉質な体はともすれば地味に見える紺や灰、そして黒の背広に良く似合う。
寡黙でクール、芯谷商事の女性社員の中でも蜂谷に憧れる社員はいるようだけれど、言葉少ない蜂谷に直接恋愛感情を向けた噂は聞かずにあくまで水面下であるようだった。
会える。嬉しさで小走りになる唯の足は、芯谷商事本社がビルの隙間に見えるに従って早くなっていく。
全力疾走にも近い状態で数百メートルを駆け抜けて、玄関ロビーに着いた頃には唯は肩で息をしていた。膝に両手をついて、玄関脇にある植え込み端に腰掛けて大きく深呼吸をする。
大きな窓ガラスに映った唯の髪は全力疾走でかなり酷い状態に乱れていて、頬はまるで子供のように真っ赤だった。
これじゃ、林檎か何かに貼られているシールにでも出て来そうだ。
両手を使って跳ねた髪を上から押さえつけても、絡んで飛び上がった髪は上手く纏まらない。
中に入ってトイレの鏡とでも向き合えば良かったのだが、中に入るといつ蜂谷に会うかもしれない。久しぶり会う時ぐらい少しは綺麗なままでいたい。
大体最近は酷い所ばかりを見せすぎているのに。
窓ガラスに向き合って映る自分の髪を引っ張って伸ばしていると、玄関ロビー正面の開いたエレベーターから見慣れた人影が出てくるのが見えた。
やっぱり中に入らなくて良かった、喜色満面で立ち上がった唯はその蜂谷の背中向こうにもう一人見慣れた姿を見つける。
蜂谷の横に、桜坂がいる。
打ち合わせかもしれない、そう思おうとする心は見える残酷な風景を記憶に取り込んでいく。
持った書類を胸の前で開けた桜坂に、蜂谷は乗り出してその内容を覗き込む。
いつも勤務中は後ろに纏めていたその長い桜坂の髪は胸まで垂れて、書類を指差す蜂谷の指に時折絡む。
桜坂がほほ笑んで、蜂谷が口端を微かに上げる。
胃が、痛い。
唯はその場で動けないまま、その余りにも似合いすぎる二人を見つめる。
蜂谷は、自分の大切な人で、
桜坂には、結婚するべき相手が既にいる。
傍目からすると何も問題の無い二人なはずなのに、どうしてだろう?
「おう、今から庶務か」
「あら、どうしたの?」
二人同時に玄関から出て来ると、ロビーの窓ガラス前で立ち竦む唯に気付いて声を掛けてくる。それも二人同時だ、吐き気がする。
上手く笑おうと意識を総動員させて強張った笑みを無理に浮かべると、蜂谷が訝しげに眉を顰めた。ちらりと唯に視線を移し、背広の胸ポケットから携帯電話を取り出す姿。
「桜坂、悪い。先に行っててくれ、あとから電話する」
近寄ってくる蜂谷は唯に手を伸ばしながら、俯いた唯の手首を掴もうとして来て反射的に唯はその手を振り払った。
見上げた蜂谷の顔は、悲痛でまた唯は苦しくなる。
「え? 貴方の出先なのに、私一人で行けってこと?」
らしくないカン高い抗議の声を桜坂は上げた。出先、招待客の打ち合わせか。蜂谷は大きな取引先をいくつも担当している。
仕事の邪魔は絶対に出来ない、とうとう掴まれた蜂谷の指にやんわりと手を乗せる。
切り替えろ、せめて今だけでも。
「蜂屋主任! 仕事はきちんとしなくちゃ駄目ですよーっ!」
わざとらしい程に明るい声が出た。掴んだ蜂谷の指が少し緩んで、唯は強引に手首を引き抜く。残った熱が切なかった。
「昨日、ちょっと寝不足で顔色悪いから心配してくれていたんですよね! でも、大丈夫です!」
ああ、これで引いてくれればいい。
後から電話でしっかり説明しなくては。寝不足で顔色が悪いなんて、きっと嘘で言った事には気付かずに心配するに違いない。
ああ、胃が痛い。
「じゃ! 私、庶務課に呼ばれてますんで! お仕事頑張って下さいね!」
返事も聞かずに蜂谷の横をすり抜けると唯が引き抜いたままに蜂谷の指の形は残っていて、少し奥歯を噛んだ。桜坂が無表情で横を抜ける唯を見ている、擦り抜ける寸前に小さく会釈をした。
彼女は、クライアントだ。
ああ、胃が痛い。
久しぶりに入った芯谷商事本社は全く変わらない。吹き抜けの広いロビーをつきぬけて、唯は真っすぐエレベーターに向かう。
絶対に後ろは振り返らない、泣きそうになるから。
不安になるべきことではない、蜂谷は唯の方を見ると言ってくれたのだし彼女として今立っているのは唯の方だ。何も不安に思って騒ぐ事ではない、そう思う心の反面。
見ないように、考えないようにしていた事が頭を過る。
一度も言われたこと無い、恋愛感情の吐露。
最後は折れたかに見えた、蜂谷の言葉。
「きっと、泣くぞ。俺は女の扱いは上手じゃない」
「不安に思って、離れたくなってももう無理だぞ」
「……分かった」
ああ、弱気になると変な事を考え始める。
唯は強く握った拳でエレベーターの七階ボタンを押した、激しい衝突音がした。
「久しぶり、元気してるの?」
「遥ーっ! もう、会いたかったよー!」
「……変わらないね、安心した」
「春日さん、再会もいいけど仕事してね」
再会の抱擁を済ませると、庶務課課長から呆れた声が唯の背中に刺さった。意味ありげな視線を片岡に向けると、片岡の方も肩を竦めながら書庫室の方を無言で指差してくる。
積もる話は課長のいない場所でした方がいいらしい。
無言で庶務課を出て書庫室に入ると、二人でパイプ椅子に腰掛けて向かい合った。片岡は唯が覚えているよりも少し髪が長くなって、空気が柔らかくなっている。きっと鈴木とも上手くやっているんだろう、とそう思った。正直、うらやましい。
「ごめんね、忙しかったんでしょう?」
謝る片岡は首を軽く横に傾げて、その人形のような可愛らしい動きに唯は安堵する。自分には全く無い要素の物だ。
「いいの、いいの! 毎日って訳じゃないんだからさ。どうせ、主任が動かなかったんでしょ?」
「……そう。春日に聞けば早いって。止めたのに、課長に言っちゃって」
「はははは、やっぱりね」
本当に予想の上を行かない男だ、少し小太りの口は上手い姿を思い出し唯は顔を歪める。そういえば、今日は庶務課にいなかった。きっとトイレにでも行っているんだろう。
スーツが汚れるのも気にせずに、帳簿を見ないまま記憶に辿った書類は案外すぐに見つかった。
社員食堂で久しぶりに昼食を取って、午後からまた探す気だった唯は肩透かしを食らわされる。これぐらいなら庶務課総動員で一日頑張れば、唯がいなくても見つけられただろう。
設計課の担当にファイルを渡しに行かなくてはいけない、という片岡とまずは書庫室で別れて唯は休憩室向かう。
昼時間にあと五分のこの時間は、営業課の人間が殆ど戻って来ている。この間打ち合わせの席で電話が来てから連絡をしていない木坂と会えるかと、少し期待した。
「ちょっと鈴木主任! 俺、さっきの聞いて無いんですけど」
「木坂。俺、最近忙しくて正直手が回らない。しっかり頼んだよ」
「だからって、ですね!」
懐かしい自動販売機と、日光差し込む大きな窓。間仕切りの向こうから木坂と鈴木の会話が聞こえて、唯は間仕切りの端から二人を覗き込む。
「こん、にち、わ」
はにかんで笑ってみせると、突然の訪問者に木坂も鈴木も会話を止めて唯を見た。何か、難しい話の時に話しかけてしまったんだろうか? 動揺して間仕切り向こうに逃げようとすると、鈴木が軽く右手を上げた。
「仕事? 遥から聞いてる」
遥、片岡の名前をさらりと言う鈴木に唯の方が赤くなる。
「は、はい! でも、もう終わっちゃって」
「そう、もう戻るの?」
「そうですね、社食でお昼食べていこうかな? なんて」
「春日、飯なら俺も行く!」
木坂が話にやっと参加する。鈴木は乗り出した木坂に軽く視線を流して、持っていた書類を木坂の顔に叩き付けた。
「痛いですって、なんで叩くかな」
「……別に。余計な事はしないように」
そう言い残して営業課に去っていく鈴木の背中を木坂は無言で見送っていて、唯はそんな二人を不思議に思いながら首を傾げて木坂を見上げる。
二人の言葉は時々抽象的すぎて読めない時がある、特に鈴木は。
「余計、って?」
「いや。こっちの話」
不機嫌そうに短く言い返す木坂の声は、低くいつもらしく無くて唯は「ふぅん」と一応頷いて見せた。
時間を見ようとバッグに手を入れた唯は、携帯電話が小さく点灯しているのを見つけて画面を開く。
メール受信が一件、木坂に見えないように本文を見る。
『今日、時間開けろ』
短い本文はロビー前で別れたすぐの時間に受信していて、気付かなかっただけらしい。先程の言い訳の説明をしなくてはいけない、そう考えると胃に痛みが走る。
いつもよりも激しい痛みに唯は無言で胃を押さえてしゃがみ込んで、様子のおかしい唯にやっと木坂が気付いた。肩に木坂の手が当たった。蜂谷とは全く違うけれど、温かい。
「春日、凄い顔色だけど」
「……だい、じょぶ」
「ってか、大丈夫なんかじゃないだろ。病院……は昼休みでやってないか。医務室、行こう」
会社の医務室は小さいながらもベッドも薬も置いてある。脇に腕を入れてくる木坂の腕を唯は振り払った。大丈夫、そういいたいのに声が出て来ない。
ああ、胃が痛い。
強制的に脇に腕を入れられて、木坂は営業課のドアから仕事中の鈴木を小声で呼ぶ。呼び出された鈴木が小さくため息をついて寄って来て、ドアの陰に隠れた唯の姿を見て眉を寄せた。
「医務室、行って来るんで」
「ああ、分かった」
短い応答で話す二人の声が少し遠くに聞こえる。
歩き始めた木坂が小声で「蜂屋主任にメールしとく」と言った。唯は咽喉に溜まる唾を飲み込んで、小さく首を振る。
生唾、吐き気もする具合悪さは尋常では無くて、唯は肩で大きく息をつく。横を驚いた視線を向けながら擦れ違う他の部署の社員に、唯は苦しい息の中小さく会釈した。「んなの、今はしなくていいんじゃない?」冷静な木坂の突っ込みに、唯は苦笑する。
「蜂屋主任には、言わないで」
「どうして」
責める声。
「いいの、これは私の問題だから」
「春日」
迫る声。
「お願い、黙ってて」
蜂屋主任。貴方に会って、私の世界は変わったの。何を犠牲にしたとしても、手だけは離さない。
私の犠牲だけで離れていかないのなら、私が勝手な嫉妬さえ取り払ってしまえば傍にいられるのであれば。
「お願い、木坂」
返事は無かった。