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28/41

力走

 ただ、前へ。後ろを見たら首に何かが巻いてあるのに気付けるのに。



「この名簿の確認を、お願いできますでしょうか?」

「ああ、招待客のリストですね。こちらの作ったものと照合させますので、少しお持ち下さい」

「はい」

 広瀬の後ろ二歩後ろで、唯は手に持った企画会議のファイルを持ち直した。

 両手で持っても重いそのファイルの中身は、色々な結婚式の実例集とそれに関する写真だ。

 促されるままに総革張りのソファーに体を埋めると、その柔らかさに唯の膝が上がった。パンツスーツで良かったと慌てて膝を押して背中を起こすと、桜坂の婚約者が人のいい笑みを浮かべる。

 この人は嫌いじゃない。

「今、桜坂も来ますから」

 ああ、やっぱり来るんだ。唯は痛む胃を上から強く押さえつけて、強張った笑みを返した。横で広瀬が書類を広げ始め、自分の心を叱咤して唯も持ったファイルの扉を開けた。

 打ち合わせと称する顔合わせが終わり、これから始まるのは招待客リストの作成と内容の打ち合わせだ。

 特に招待客は心してかからなくては、会社単位の問題になる。



 一昨日の夜は蜂屋の部屋に泊まった。

 恋愛関係にあるとは思えない程に健全で、ただ横になって寝ただけだった。酒がまだ残って重い身体だったのは唯の自業自得なのけれど、そのまま押し倒してくれればいいのに、と思ったのは本当に自分勝手だ。

 勿論、先程まで日本酒で倒れていた人間に蜂屋が手を出すはずもなく、ただ抱き寄せられて背中を撫でられる。それは、ただ親が子供を宥めるのに似て唯は複雑な気持ちになった。蜂屋の心の中でまだ自分は後輩であって、女としての位置をはっきりと確立していない。

 たった一度だけしか抱かれた事のない身体は不安を簡単に取り除けるほど強くも無く、背中に回る弱い腕の存在だけで何とか過る不安を押し流す。

 まさか二日連続で同じ服を着ていくわけにもいかず出勤前に自分の部屋に戻るつもりで携帯電話に掛けたアラームは、AM6:00。

 日も完全に昇って唯が目を覚ましたのは、AM10:30。

 眩しくも熱い昼の太陽光で目覚めた唯が飛び付いた携帯電話のアラームは切れていて、唯は既に起きていたらしい蜂屋が仕事をしているリビングに飛び込んだ。

 動揺のあまり大声になる。

「ななななんで、切ったんですかぁ!」

 しかもこんな時間まで全く起きようとしなかった自分もおかしい、折角久しぶりの逢瀬だと言うのに酔っぱらった上寝坊なんて蜂屋との時間は殆ど就寝時間だ。

 動揺する唯の方に顔だけ上げて表情も変えずに蜂屋が書類を捲る、片手はボールペンを持ち服装はジーンズとTシャツ。休日の姿は初めて見て、唯は少しその場で固まった。

 初めて見る姿は時に、胸を苦しくさせる。

「寝てろ、仕事場には俺が送っていく」

 返ってきた声に唯は我に戻る、絶対一番重要な事に蜂屋は気付いていない。

「だって! 昨日と同じ服だったらおかしいじゃないですか!」

 昨日着ていたのは打ち合わせだったこともあってスーツだ、今日の現場はイベント会場。着ていく服が全然違う。

 大体、昨日抱かれて帰っているのを先輩たちに見られていたらどう考えても憶測される内容は分かっている。

 朝帰り、あくまで健全に寝ただけなのに。

「……何か、おかしいのか」

「全部です! もう、すぐ帰りますー!」

 全く察してくれない蜂屋の声に、唯は耳まで真っ赤にしてその場で叫ぶ。本当に気にしているのは自分だけだ、動揺が悲しい。

 いつも通りに大きくため息をついた蜂屋はテーブルに手をついて立ち上がり、叫ぶ唯の前に立ちふさがる。唯は顔を両手で覆って口の中でくぐもった文句を言っていると、そのまま背中に回った蜂屋の手に引き寄せられる。

 あまり強くないその抱擁に唯は顔を隠した両手を退けて、すぐ上にある蜂屋の顔を見上げた。少し様子がおかしいような気もした。

 酒を飲み過ぎたのも自分のせいで、仕事に行くのも自分だけだ。少し勝手すぎたかもしれない。

「蜂屋主任? そんな怒ってないですよ?」

 自分は落ち込んだ子供を慰める親か、両手を振っておどけて見せた唯は心の中で苦笑する。返事は短く、低い。

「ああ」

「でも! もうすぐに送って行って下さいね!」

 これから帰ったらPM11:00は過ぎる、シャワーを浴びて化粧を軽くして、着替えてから電車でイベント会場まで向かう。

 やることは目白押しだ。

「……ああ」

 短い返事の後で蜂屋の腕は唐突に離れて、唯はずり落ちたスウェットのズボンを片手で引き上げた。やるべき事の多さに頭はパンク寸前で、ほんの少しの沈黙には気付かなかった。

 少し煙草臭くてもスーツに着替え直さなくては、二日酔いも無く唯は元気にそう思う。



「春日、さっきの書類どこだっけ?」

「あ、このファイルです!」

 テーブルに隙間なく背中後ろに置いた一際重いファイルを引きずり出すと、丁度背中側にあったドアがノックされた。

 開いたドアの隙間から洩れて鼻を擽るのは香水の匂い、いつもは後ろに纏めている髪もゆったりと胸に下ろしている。部屋に入ってきた桜坂は婚約者に微笑んで、一瞬唯の上で視線を止めた。

 表情は変わらず、ほほ笑みを崩さない。視線だけが妙に突き刺さった。

「遅れてごめんなさい、広瀬さん。春日さん」

 軽く会釈をして唯の真向かいに腰掛けた桜坂の手指の爪に光るのは薄いピンクのマニキュアだ、唯はそのインクだらけの手を隠すように拳に隠した。

 女であることだけの共通点以外に唯と桜坂に似た所はない、蜂屋が自分の背中に桜坂を見ていないというのがこんな所で見えるのは皮肉だ。

 全く女として情けない。

「あ、そうそう」

 持ってきたファイルを桜坂に手渡し説明を始めようとした広瀬が口を開く前に、桜坂は突然口を挟んだ。両手は名案を思い付いたように合わされ、桜坂は婚約者の方を向き直る。

「和菓子買ってきたの、先にお茶を入れるわね」

 明らかに打ち合わせの前にする行動ではなく唯は少し眉を顰める、広瀬もそれは同じ事を思ったみたいで似た表情を浮かべている。

 水物は時に書類を濡らす。本来であれば、書類が並ぶ今に湯呑を並ばせる事はないだろう。

 継いだ桜坂の言葉で唯は真意を知った。アイラインを太目に引いた少し強い視線が唯の方を見て、唯はファイルを強く掴む。

 何か、ある。

「春日さん、手伝っていただける?」

 これか。突然の脈絡のない行動に不信感を抱いていた唯は上司である広瀬を振り返る、広瀬は書類を開きながら片手を振って答えた。行け、ということらしい。

 行きたくない。

 言いそうになった言葉を飲み込むと、胃が刺し込む痛みに微かに痙攣する。唯は少し動揺しながらも笑顔を作って婚約者に頭を下げ、先に出た桜坂を追う。

 絨毯は毛足が長く、こんな絨毯が営業室であればきっと掃除が大変だろうと全く懸念とは違う心配が過る。すぐ横にある芯谷商事の給湯室とは全く違う、システムキッチンにも似た給湯室に入ると桜坂が和菓子の箱を唯に手渡してきた。

 箱の外は和紙で飾られ、銘を見るとテレビで紹介されていたのを唯も見たことのある水菓子等のお店だった。

「そこに漆の菓子皿があるはずなんだけれど」

「はい」

 唯はシステムキッチン横に備え付けられた、自分の部屋の食器棚よりも大きい棚の扉を開けた。中にあるのはミントン、ウェッジウッド等のティーセット。ロイヤルコペンハーゲンなどのコーヒーカップのセット。

 唯ですら知っている有名どころの食器がずらりと並んでいる。その端から和紙に包まれた菓子皿を取りだすと、シンクの近くに並べた。漆は艶があり色が深い、詳しくない唯でも見た目からして違うと思える。

「かいし、出して頂ける?」

 聞き慣れない言葉が出てきた。

 唯は食器棚前にしゃがみ込んだままで、桜坂を見上げる。かいし、開始、会誌。良く分からなかった。

「懐かしい、紙で懐紙。和菓子を包んでお土産にどうぞ、この和菓子とても美味しいのよ」

 ああ、この薄手の紙の事を言うのか。唯はほほ笑む桜坂を見ながら、少し胸を撫で下ろす。少なくとも今日の桜坂は気さくで今まで見知った桜坂のままだった、蜂屋と一緒にいた時の険は全く感じられない。

 手渡した懐紙に手際よく和菓子を包んでいく桜坂を見ながら、指示された通りの湯呑茶碗を食器棚から出した。

 やかんはIHヒーターの上で沸騰した音をたてていて、唯はヒーターに走り寄る。どこで消せばいいのか分からなくて、ボタン上の文字を読みながら指差していた唯の背中に桜坂の声が掛かる。

「蜂屋さんのお宅も、IHじゃなかった?」

 一瞬、呼吸が止まった。

 唯の手が止まって、桜坂を振り返る。桜坂は今の言葉がまるで嘘のように、今までと変わらない空気を纏って茶葉を急須に入れている。

 やかんの口から激しい沸騰のせいか湯が噴射する、桜坂が動かない唯を見て苦笑するとIHヒーターの一際大きいボタンを押した。やかんの激しい噴射が止まり、給湯室には沈黙が流れる。

 今、何を言ったのか。

 聞き返したい声は唯の口から出て来ない、今の言葉から分かるのは桜坂は蜂屋の部屋に入ったことがあるという事実。数年前までは交際していた事実は頭では理解していても、突き付けられるのは正直きつくて顔が上手く作れない。

 蜂谷主任? この場にいない人の事を思う。

 ああ、まずは強くならなければ。

 不安と向き合って、蜂屋にずっと振り向いていられる自分でいなければ。

 こんな簡単に不安になったり、嫉妬したり、ちょっとしたことで動揺したら絶対に駄目だ。

 決して弱音を吐かないで、ただいつもの『唯』でいなければ。

 奥歯を噛み締める、壊れそうな寸前で自分を押し留める。


「  」もう彼を離して下さい、私の物だけにして下さい。

「  」貴女は愛してくれる人がいるんでしょう?

「  」私は五年間ずっと待っていたの。

「  」やっと少しこっちを向いてくれたの。

「  」もう絶対に離したくないの。

「  」もう絶対に諦めたくないの。


 お願い。


 無音の「  」

 出て来ない言葉はただ唯の心の中で渦巻いて、ともすれば泣き叫びそうな衝動を深呼吸で抑える。

 今は勤務中だ、私情は厳禁で相手はクライアントだ。震える指で漆の菓子皿を並べて、その上に和菓子を並べていく。

 その姿をただ桜坂は黙って見詰めて、小さくため息をつくと湯呑に湯を注ぎ込んだ。玉露に熱湯は厳禁だ、渋みが出て美味しくない。沸かし過ぎた湯は玉露には合わず熱を冷やす為の時間は唯には苦痛だった。


「蜂屋さんのお宅も、IHじゃなかった?」

 たったそれだけの言葉が唯の首に綿を巻いている。

 猜疑心よりも嫉妬心と独占欲? 振り切りきれない過去の恋愛が自信の持てない自分を壊していくのが分かる。

 でもただ、前へ。後ろを見たら首に何かが巻いてあるのに気付けるのに。

 前を歩く蜂谷を、ただ追うことしかできない。

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