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「  」  作者:
26/41

独走

 お願い、離れていかないで。



「春日」

 重い瞼に当たっていた光は何かに遮られて影を作る、耳に流れ込むのは微かな音楽と話し声。苛ついた声が聞こえる、それと少し笑いを抑えた声。

 声に返事をしたいけれど、唯はそのままに任せる。

「駄目だね、結構飲んでたらしいよ。流石、元同僚だよ。何か見たことある光景だ」

「……鈴木、お前の話は聞いてない」

「送って行ってあげれば? 彼女の会社の人たちには、俺がもう話つけてあるから」

 ああ、大きなため息。鼻を擽る揚げ物の匂いに少し吐き気が込み上げて、唯は体を小さく縮込める。途端揺らぐ体に伸びたらしい腕が、唯の体を抱き上げた。

 揺れる、覚えのあるその腕も膝裏に回る手の平も少し冷たい。耳に触れる場所から直に声が聞こえる。

 すぐ近くから大きな笑い声とたくさんの拍手、襖向こうの部屋は盛り上がっているようだった。

「打ち合わせは」

「もうお開きだろうね、ほどほどに無礼講になりつつあるし」

「……タクシー、呼んでくる」

「はいはい。あ、蜂屋」

「何だ」

「それ、預かっておこうか?」

「いい」

 それ、を鈴木に預けようとはせずに何が面白くないのか不機嫌な声で言い返したその声の持ち主は、大股で動き始めてそれに連動して唯の体も揺れた。

 微かに開けた目でそのまま見上げると、視界か歪んで具合が悪いのに気付く。日本酒は余り得意じゃなかったはずなのについ飲み過ぎてしまった。

 仏頂面の蜂屋が見える。いつもより少し前髪が乱れていて、幼い。

 微かに目を開けた唯には気付かずに蜂屋は唯を抱き上げたまま、通り過ぎる料亭の店員に声を掛けている。

 タクシー、を一台。唯は愚鈍な頭で天井を見つめると視界が回った、天井が丸く見えて気分が悪い。

 走り去った店員を見送って、蜂屋は大きなため息をついた。そのまま腕の中を見下ろして、見上げたまま虚ろな目をする唯と視線が合った。

「飲み過ぎだ」

 低い声が唯を咎める。ああ、まるで彼氏と彼女のようだ。と考えて今の自分たちはそうなのだと気付いて少し頬が緩む。

「はぁい」

 怒る声に小さく返し肩を竦めると、唯は蜂屋の胸に顔を埋めた。煙草の匂いがして、安堵する。

 ああ、久しぶり。物凄く幸せだ、確かさっきまで嫌な事があった気もするのに、これだけで全部吹っ飛んだ気がする。小さく笑いながらワイシャツに顔を埋める唯に、また大きくため息が降ってくる。

 歩き出した蜂屋を鈴木の声が止めた。

「蜂屋、春日さんのバッグ。と、蜂屋の背広」

「ああ」

 ひょいと覗き込んだその歪んだ鈴木の顔を唯が反応鈍く見上げると、鈴木は苦笑した。

「起きたんだ、春日さん」

「……はぁい」

「ああ、完全に酔っぱらってるね。本当に……いや、いいや。気を付けて」

「……はぁい」

 噴き出す鈴木を尻目に、蜂屋は料亭の出口へと歩き出す。

 微かにあちこちのお座敷から、宴会の声と音が聞こえた。

 微かな三味線の音と鹿威しの音は録音しているものだろうか? 時折聞こえる食器の重なる音は、横を料理持ちの店員が通り過ぎていっているのかもしれない。

 揺れる体に唯はまた瞼を閉じようとまどろみ始め、殆ど閉じ掛かった所で女の声が聞こえた。

 少し急いでるように、その声は弾んでいる。

「蜂屋さん、ちょっと」

「桜坂、どうした」

 その声は主催者として今座敷にいるはずの桜坂の声、唯は蜂屋の胸でもう閉じそうだった瞼を無理やり微かだけ抉じ開けた。

 腕から下りようと唯が少し身動きをしたら蜂屋の腕に力が入る、どうやら無理はせずにこのまま寝てろと言うことらしい。

「もう、帰るの?」

 折角楽しんでいるのに、咎める対象は腕の中の唯なのか。

「ああ、こいつを送っていく」

「でも、会社の人もいるんでしょう?」

 何故貴方がわざわざ送るの? 少しその声は唯を責めている気がした。

 だって、このひとは私の物だもの。唯が口を開こうとしても、酒で酔っ払った体も口も言うことを聞かない。嫌な事があった、忘れていたそれは、桜坂の牽制だ。

 どうして気にするの?

 もう終わったんでしょう?

 婚約者だっているんでしょう?

 結婚するんでしょう?

 完全に手離す事が出来ずに細い糸でも掴んでいたい人はたくさんいる、どうやら桜坂はそういう部類らしい。

 唯には全く理解は出来ないようで、木坂にもし彼女が出来たとしたら複雑な想いになるのと、もしかして根本は同じなのか。ただ決定的に違うのは、互いに恋愛感情を共有した覚えがあるか。そうではないかだ。

 蜂屋はついこの間まで、桜坂への想いが捨てきれなかった。未だに捨てたのか、唯には定かではない。それが何よりも怖い。

 聞きたいことはたくさんあるのに、言葉は全く出て来なかった。ただ、ひたすらに眠い。

「帰る」

 ああ、そんな言い方では何も伝わらないのに。

 寡黙で言葉足らずな蜂屋にはっきりと彼女と明言してくれることを期待するのは、どう考えても過剰な期待だった。必要最小限、たまにそれすらも彼の口から出て来ないことすらあるというのに。

 唯は眼を瞑って蜂屋の胸に顔を寄せたままで、ただ思う。微かに指を動かせば、蜂屋がため息をついた。

 蜂屋から出てくるのは不機嫌な低い声。

「桜坂、お前も戻った方がいい」

 少しの沈黙。沈黙は金、雄弁は銀という言葉を思い出す。

 何かを飲み込む様な、感情を押しつけるようなそんな沈黙だった。掠れたいつもの桜坂らしくない声が、その沈黙を破る。

 複雑な心境、そんな声だった。

「……そう、じゃまた今度」

「ああ」

 今度、というのが次の打ち合わせを意味するのは酔っぱらった唯の頭でも分かった。あまり、いい響きではなく、胸に過るのは根深い不安。

 お願い、離れていかないで。酒の入った頭は欲望に素直で唯はワイシャツのポケットを力無く掴む。

 動いている気配、蜂屋の腕に力が入って唯は少し安心した。

 そのまま、瞼を閉じる。

 体の揺れは程良く揺りかごに似て、唯は眠りに落ちた。



「春日」

 ベッドに手が降ろされたような気がして、唯はまどろむ目を開ける。乗り掛かるように覗き込むのはTシャツ姿の蜂屋だ、随分と眠っていたらしい。

 寝返りを打って横を向くと、額に拳骨が入った。軽いものの、酔っぱらった頭には結構な衝動だ。

 次いで、顔に布の塊を投げつけられる。

 かなり乱暴だ、まるで会社で後輩として接していた頃を唯は思い出す。受け取るような素早い反応は出来ずに、唯は頭からその布を被った。布の塊はTシャツとスウェットだ。

「着替えてこい、寝るぞ」

「……はぁい?」

 寝転がったまま、唯が首を傾げると蜂屋が呆れた視線を向ける。

 この人は自分といる時に幸せをため息で全て逃がしてしまうつもりなんじゃないんだろうか、と思うこほど最近ため息を頻発している。

 はたと気づくと、ベッドは自分の部屋の物ではなく蜂屋の部屋の物だと分かった。目の前にいる蜂屋は既に着替えてシャワーを浴びたらしく、髪も下りてやっぱり少し子供っぽい。

 重い身体を起こしてみれば、リビングにはもう明かりもなく寝室のベッドサイドにあるダウンライトだけが点いていた。

「春日」

 なかなか行動に移さない唯の背中に、蜂屋の声が刺さる。早くしろ、ということか。唯は視線をを壁に移すと、壁時計の時刻はPM11:00を回っていた。

 明日は確か昼に直接イベント会場に出勤だ、この仕事に土日はない。むしろ土日は書き入れ時だ、休む訳にはいかない。

 明明後日の月曜日にはまた桜坂の打ち合わせだ、こちらで作った招待者リストを桜坂の婚約者に確認して貰うため相手の会社に直接伺うことになっていた。正直、行きたくない。

 背中に咎める視線を感じながら、唯は重すぎる口を開いた。

「蜂屋主任、打ち合わせって必ず出なくちゃ駄目ですよね」

 背中を押して欲しい、仕事に私情を挟むのは厳禁なのは理解してるけれど。

「何のだ」

「全般に、です」

 まさか桜坂の打ち合わせだけには行きたくないとは言えない。

 嫌だなぁ、心が狭すぎる。

「……出た方がいいんじゃないか」

 元彼女だか何だか知らないけれど、相手がもう結婚秒読みなら負けるわけにはいかない。唯はため息なのか深呼吸なのか微妙な息を吐いて俯くとベッドに両手を押しつける。

 この気持ちは唯の物だ、蜂屋に相談するよりも自分で解決しなければ。

「どうか、したのか」

 その唯の姿を見て、やっぱり蜂屋が顔を歪ませると手が伸びて、唯の頭を蜂屋が抱き寄せる。不安そうに聞いてくる蜂屋の胸の中で唯は心配させないように小さく首を振った。


 まずは強くならなければ。

 不安と向き合って、蜂屋にずっと振り向いていられる自分でいなければ。

 こんな簡単に不安になったり、嫉妬したり、ちょっとしたことで動揺したら絶対に駄目だ。

 決して弱音を吐かないで、ただいつもの『唯』でいなければ。

 

 私の心の中はいつも無音の「  」

 それが自分の首を絞めていくのも知らずに、ただ真綿で首を絞め続ける。

 柔らかい真綿が、いつの日か本当に首を絞め上げて気付くと息が止まっていることなんて、勿論思いもしない。


 言わないでいれば、一緒にいられる?

 言わないでいれば、傍に置いてくれる?


 そしてまた同じ間違いを、繰り返す。

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