遁走
こっちを見て、そっちは見ないで。
「桜坂さんと同期との打ち合わせ、今夜になりそうなの。春日、大丈夫?」
片手にコーヒーの入ったマグカップを持って、広瀬が言った。
マグカップの淵から湯気が立ち昇るのが見えて、落としたばかりのコーヒーだったら飲みたいと唯はぼんやり思う。だが、徹夜明けの体には直接カフェインを注ぎこむのは胃に悪い。
持っていた書類を閉じて、唯は大きく伸びをした。
「大丈夫ー! です!」
伸びたと同時に唯の背中から軋んだ音がして、広瀬が苦笑した。「お疲れ様」片手を振り、短く言って奥の会議室へと広瀬は消えていった。
唯は書類と資料に溢れた机の中の残り少ないスペースに、べたりと額を付ける。正直死にそうな程、眠い。
机の下に落とした片手には携帯電話、もう徹夜と激務で蜂屋には数日間会っていない。かろうじて再開した短いメールが繋ぐのは唯の気持ちだ。
『余り無理するな』
『大丈夫か』
『今日も徹夜か』
恋人同士とは思えないその短い文はハートマークは勿論のこと句読点も感嘆符も疑問符もなく、まるで両親からのメールのようだ。両親の方が遥かにましか、一応最近は絵文字も覚えたようだ。
『ありがとうございます、頑張ります』
『大丈夫です』
『はい、徹夜です』
色気も素っ気もない事務連絡にも似たメールが蜂屋に今日も送られる、ハートマークも入れたいけれど流石に突然メールが華やかになるのも気恥ずかしい。
「……会いたい」
疲れた体のせいで気弱になった心が呟いてみれば、口から飛び出て来たのはかなり弱々しい自分の声。
会わない間に、もしかしたら自分の事をまた見限るのではないかと正直唯は気が気ではない。
今夜、顔合わせと食事会を兼ねた打ち合わせはきっとどこかの料亭で行われるのだろう。桜坂と桜坂の婚約者、蜂屋と同期の鈴木、それに他の同期数人。こちら側の参加は恐らく社長と今回の企画の総責任者、それに唯含める担当数人。
明らかに十数名の大所帯だ。どう考えても蜂屋とのプライベートな時間は持てそうもない。
唯は携帯電話のメール履歴を呼び出して、蜂屋へのメールを作る。仕事の内容でもあるからあまり文を崩さずに、そう気にしながら慎重に打ち込む。
『本日の件。打ち合わせに社長他担当に私も入ることになっています。来られますか?』
少し、堅苦しすぎる気もしたもののそのまま送信する。十分で蜂屋の返事を受信する。
『行く』
やっぱり、そのまま仕事モードで返ってくる。端的で簡潔な文とは言えど、唯は机に突っ伏す。どう考えても、恋愛感情は自分の方が多過ぎると思う。そう思い始めるのは焦げたはずの手の平がもう治りつつあるからだ、数日間鮮烈だった記憶を刻みつけたまま残酷なほど火遊びの記憶は日々薄れていく。
触れた手、囁く声、近くにいないのはこんなにも苦しい。
会いたい、会いたい、会いたい、そうただ叫びたくなるのはずっと蜂屋を焦がれていたのが唯の方だからか? ただ受け止めるだけの蜂屋は、案外クールでそれほどに気にしていないのかもしれない。
桜坂、ならどうなのか。
昔であれば、違ったのか。
自分からのめり込んだ相手であれば、違うのか。
会えないだけで簡単に不安に押し流されるこの感情は、片想いとは全く違う苦しみだ。唯はともすれば芯谷商事に駆けだしたい衝動を必死で抑える、今はそんな時間はない。
可能な限りの情報を集めて、広瀬や他の先輩の足を引っ張らないようにしなくては。今、向き合うことはまずそれしかない。
焦がれるこの心をねじ伏せる。
「初めまして。これから申し訳ございませんが、よろしくお願いいたします」
頭を下げた桜坂の婚約者は、穏やかで優しい雰囲気の蜂屋とは間逆の人間だった。芯谷商事の大型取引先社長の長男だと自己紹介したその男は、横に座る桜坂を眩しそうに見詰める。
桜坂はその視線に微笑み返し「お任せしますね」と、いつもより数倍華やかな笑顔で言う。
歳の差は恐らく十五程、婚約者は四十代らしい。
目の前に並んだ日本料理の数々は、唯がよく目を凝らして見ても細工や調理が凝っていて何が原材料か全く分からない。一番下座に座る唯は横の広瀬や他の会社の人間に気付かれないよう、ちらりと蜂屋を覗き見る。
憮然としたその表情は桜坂と婚約者を目の前にしても、どう思っているのか全く読めない。敢えて悲観的に考えてみれば、わざとそちらを見ないようにしているのか。
横に座る鈴木に腕を小突かれて持った箸の動きを止めた蜂屋は唯の方に視線を向ける。笑おうとしたと同時に、数ヶ所横に座る企画の責任者が立ち上がり担当者の紹介を始めた。
蜂屋の視線が逸らされる。
ここは仕事場だ、そう言い聞かす。
そう言い聞かさなければ、唯は我儘を言ってしまいそうだった。
桜坂が、話す。蜂屋が唯に背を向けて、桜坂の方を向く。それは仕方がないのは心の奥底で理解している、仕事中であり今日は桜坂の結婚式の件で皆ここに集まっている。
ただ、幸せそうに微笑む桜坂は女の唯の眼から見ても本当に綺麗で可愛らしく、まだ圧倒的に自信のない唯は奥歯を噛み締める。少し、俯いて唾を飲み込んだ。
一番の下っ端である唯が、打ち合わせや社長と婚約者との会話に入っていくことは全く無く、むしろ酌をしに行こうとして広瀬に視線で止められた。こういう料亭では余りそういうことはしなくてもいいようだった。
「同期の方々には迷惑かけますけれど、お願いします」
頭を下げた桜坂に鈴木や他の同期が笑って冗談を言っている。昔は皆で飲みに行った、車を借りてどこかにキャンプに行くこともあった。そういう話で盛り上がる。
それは唯の知らない事ばかりで、胸が妬ける。過去の蜂屋にまでその手を伸ばすことは決定的に無理だ、知っているからこそ締めつけられる。
こっちを、見て。
何度も向けたままの背に念を送る。
ずっと、会っていないんだよ。
桜坂に微笑む蜂屋の姿に奥歯を噛む。
会いたいのは、もしかして私だけ?
入社式の話で桜坂が微笑む。
そっちを、見ないで。
『そんな辛いなら、止めろ』蜂屋の声が聞こえる気がする。嫌だ、もう諦めるなんて出来ない。踏み出した見知らぬ領域は甘く狂おしいほどに愛おしい。あの流れてしまいそうな時間も、穿つ痛みも、腰に触れる腕も、耳元で苦しそうに喘ぐ声も、もう諦めることは絶対に出来ない。
でも、それは自分だけなのだろうか?
「春日、携帯電話鳴ってるよ。端だったら話してもいいから」
「はい」
元々下座だった唯は携帯電話を持って部屋の端に寄る、画面を開くと見慣れた名前だ。口元に手を当てて、通話ボタンを押しちらり席の方を見ると蜂屋と視線があった。別に意味はないものの、唯はつい視線を逸らす。
木坂の声が携帯電話から聞こえる。
『春日? あれ、仕事中だった?』
「うん、今桜坂さんの結婚式の」
『ああ、あれって今日だったんだ! ……じゃあ、桜坂さんの同期も集まってるってやつ?』
微かな沈黙が流れて、唯は可能な限り声のトーンを落とす。
「うん、ごめんね。木坂、次はこっちから電話するから」
『いいよ、仕事頑張れ。じゃ』
気を使うような言葉を吐いて木坂の通話は切れ、耳元から電子音が聞こえると唯は小さくため息を付いて切断ボタンを押す。振り返った唯の視線と蜂屋の視線が絡んだ、蜂屋はまた全く感情の読めない顔で唯を見つめる。
会話に参加せずに唯の方を見る蜂屋の腕を、視線だけは桜坂の方に向けて鈴木が肘で小突く。会話は止めずに注意してきた鈴木に気付き、蜂屋はすぐに唯から目を逸らした。
その時間はたった数秒。恐らく鈴木以外は誰も気付いてはいないだろうと思った。
唯は蜂屋を追ったその視線を一度俯き逸らして、桜坂の方を見る。先程までとは違う表情をした桜坂と何故か目が合う。
桜坂がおもむろに口を開いた。
「同期で良く旅行に行ったわね、ゴルフとかもしたし」
「桜坂は下手だったけどね」
鈴木がおかしそうに、その桜坂の言葉に応じる。
「あら、ゴルフなら蜂屋さんの方が下手だったじゃない。ねぇ?」
「……そうだったか? 俺は桜坂の方が下手だったと思う」
蜂屋が憮然と応じて、その声に鈴木の声が重なった。婚約者は微笑ましい同期の会話を黙って聞いている。
「いや、俺から言わせて貰えば二人とも十分に下手だったよ」
同期の間から忍び笑いが漏れる。
蜂屋と桜坂の交際は、同期の間ではもう風化して今問題になるほどではないと解釈されているらしい。
本当に?
「沖縄に行った時のお土産屋さんではもうおかしくて」
「……それは確か、鈴木と桜坂が他の奴らと」
本当に、桜坂さんも終わってるの?
向けられる明らかな牽制に唯の心臓が鳴り響く、唯の視線に気付かずその声に応じる蜂屋の声が唯には遠く聞こえる。ただ見詰める同期の話には唯の入る隙間は何もなく、ただその楽しそうな時間を見ていることしかできない。
横の社員が時折その話に茶々を入れ、席は和気藹々となり盛り上がる。ただ唯だけを除いて。
目の前に置かれた日本酒に手を伸ばし、小さな御猪口に並々と注ぎ込み渇く唇を濡らす。震える指のせいで御猪口から透明な滴が落ちた。
耐えなければ、そう考えながらただ辛い日本酒を流し込む。甘口の方が好きなはずなのに、妙にその日本酒は唯の口に合った。
こっちを見て、そっちは見ないで。
その声は届かない。