迷走
触れられて知ったことがある、触れられて手放したものもある。
何が今の私に必要なのか、これから知っていくしか術はない。
桜坂の結婚式の依頼はすぐにやってきた。
イベント会場に詰めていた唯は社長直々の電話で呼び出されて、薄汚れたものの何とか形式を守っている濃灰のスーツで会社に直帰し、どうやら共に担当メンバーになるらしい先輩と軽い打ち合わせをする。
社長側で集めた書類には、予想される招待客のリストが挙がっていて錚錚たる顔ぶれに少し寒気がした。これは個人の企画では決してなく、会社のメンツが掛かっているものだ。あくまでサブとして後方にたつ唯にもそれは察することが出来て、社長は何人かの社員の名前をメンバーとして指示する。
この仕事がもし成功するしたら、結婚式などのセレモニーの出だしは好調になり依頼も舞い込むだろう。絶対に失敗するわけにはいかない、そういう空気が会議室に張り詰める。
資金、見た目、企画、満足度、等飛び交う言葉は聞き慣れないものも多く、唯もテーブルに開かれたマニュアルと書きなぐられるホワイトボードを交互に見る。
会議中に眠るなんて、そんな状況ではなかった。
「春日、芯谷商事の取引先で分かることがあれば何でもいいから教えてくれる?」
横にやってきた広瀬が招待客の予想リストを持って横に座る。広瀬はウエディングプランナーの経験はないものの、その臨機応変さで大きめの企画に参加することが多い。唯は初めて話した中堅の社員に心持ち声を硬くして振り返る。
「はい! いたのは庶務課なんで余りお役に立てるとは思えませんが、分かる限りは」
「いいよ、分かる取引先をチェックしていって」
「はい!」
忙しい。忙しくて、何も考える暇はない。
蜂屋に触れられて気付いたことがある。それはもしかしたら蜂屋が懸念していたことかもしれないと、唯は何と無く察することが出来た。
手の平から零れ落ちたものの、受け止めたもの。それは決して同時には手に入らないものだと知っていながらも、踏み出す足は重くなかなか踏み込むことが出来なかった蜂屋の気持ちが、今の唯には物凄く分かる。
自分は、子供だったのだ。それはただ行為や異性に対する手段とかそういうものではなく、熱いものを知らない子供が興味本位で火に手を出すことに近い。
危険な恋愛に手を出すことを『火遊び』という。もう手を出してしまったこの手は、火傷を知った。手は絶対に引くわけにはいかない。
穏やかな何の駆け引きもない綺麗な今までの自分たち。蜂屋の奥を知った心は手に入れた愛情に安堵すると同時に、圧倒的な飢えに悩む。五年間の片想いで培った互いの結びつきも、心の動きも全てこれからは白紙に戻り未経験の愛情の積み立てが始まる。
もう絶対に離れていきませんよね?
絶対に、もう一緒なんですよね?
蜂屋主任、桜坂さんの事まだ少しは好きですか?
私と桜坂さん、割合で言ったら何パーセントですか?
もう、拒絶なんてしないですよね?
もう、絶対にただの後輩なんて言うこと無いですよね?
「好きです」と入れる事が出来たはずの、無音の「 」の中へ次に入ろうと待機する言葉達。
触れる蜂屋の手の平はそのまま寡黙で無愛想な蜂屋のままで、ただ激しく熱くそして苦しい。何度も声を上げる唯は頭の中で過ぎる関係を想う。もう、後輩には戻れない。手を離す時がもし来るのだとしたら、その時は完全に別れるのだということ。
次、蜂屋が唯を手放してしまったらもう完全に関係は断たれてしまう。それほどに後輩だった時の関係とは違い今の蜂屋との関係は濃密でいて、何よりも儚い。
懸念、不安。ただ恋の成就に酔っていた自分の何と愚かなことか、恋は正にこれからだった。
もう絶対に離れていきませんよね?
絶対に、もう一緒なんですよね?
蜂屋主任、桜坂さんの事まだ少しは好きですか?
私と桜坂さん、割合で言ったら何パーセントですか?
もう、拒絶なんてしないですよね?
もう、絶対にただの後輩なんて言うこと無いですよね?
見えないものに囚われる。
骨ばった指に手首を掴まれる。
知らなかったものに堕ちていく。
耳で切なく喘ぐ声に堕ちていく。
本当に知るべき事だったのか、本当は見えない壁とひかれた線を守った方が幸せだったのか。
踏み出した今はもう、男と女ではなかった自分たちを振り返って懐かしむだけだ。
「春日、今日の夕方から依頼主来るって。時間空けておいて」
「はい!」
パソコンでいくつかのウエディング例を検索していた唯は、顔を上げてはっきりと返事をする。数日前の関係を持った日から蜂屋の連絡は無い、もしかしたら同じことをぐだぐだと考えているのかもしれないと思う。全く違うようでいて、その真意は限りなく似ている。腹が据わっているだけ女の方が強い、意外に男は繊細だ。
今日携帯電話に入った木坂のメールにはまだ目を通していない、察しのいい木坂の事だ。もしかしたら蜂屋の何かしらの変化に気付いたのかもしれない。そもそもあの鉄面皮が、たかが一夜の情事で何かの変化があるなんて可愛らしいことがあるとは思えないけれど。
並んだ書類は厚く、量も多い。サブであるからという理由で目を通さないということは許されない、失敗は会社の沽券に関わる。今日も仕事は深夜にまでになりそうだ、唯は携帯電話を覗く。
受信一件。
『春日、蜂屋主任と話した?』
話したよ、でもまだ本当にそれが成功だったとははっきり言えないけど。
心の中だけで返答をして、唯は携帯電話の返信ボタンを押す。何を返そうか少し悩んで『話したよ』だけを返信した。受信時刻を見るとAM8:20、出勤して出先に出る前にメールを送ったのか。きっと返信は結構後になるだろう。
着信はない。
もしかして、何か失敗でもしてしまっていたのだろうか? 舞い上がったあの日は正直余り記憶が薄くただ痛かった覚えが強い。泣きながら文句を言った覚えすらある。
「……勉強、した方がいいのかな」
「勿論、ウエディングプランナーの勉強はした方が仕事面では後々使えると思うよ」
勉強の意味が睨んでいたパソコン画面の資格部分に向いていると気付いて、唯は赤面して大声で誤魔化す。危ない、全く違うことを考えていた。
「あはははははは! そう、ですよねー!」
大声で横にいる先輩を振り返り、唯は前を向いてガックリと肩を落とした。自分だけが鮮烈な記憶を持っているようで妙に恥ずかしい、痛みと文句、それはただその瞬間の事ばかりだ。
仕事しよう、唯は迷走する思考回路を切り替えた。
着信は、ない。