稼働
「来るか」
言われた意味が全く分からずに唯は何度目かの鼻をかんで、その姿を見た蜂屋に呆れた表情のまま大きくため息をつかれる。片手一杯に使用済みのティッシュを持ってまだ新しいポケットティッシュをバッグから出した唯は、そんな蜂屋を下から覗き込む。
「どこにですか? これから食事すると長くなりますよ」
居酒屋はきっともう席は空いてない位の大盛況な時間帯だ、出来るならもう少し不安は残るけれども幸せな気持ちのままで眠りたい。
明日はまだ分からない、気持ちが半分なのかもしれないけれど伝わった浮揚感に浸っていたかったのもあった。
今日はビールでも飲んで寝てしまおう、明日朝起きて夢じゃなかったら桜坂の結婚式の話とか、先ほどの胸騒ぎのことを考えればいいだろう。
唯は携帯電話を取り出して、時刻を見ると結構な時間だった。月も高くに昇るはずだ。
時刻を確かめる唯の腕を無表情で掴んで、蜂屋が歩き出した。
「いやいやいや! 蜂屋主任、本当に今日は外食は無理です! もう化粧もエライ状況になってて」
必死に言い訳をする唯の台詞は全く耳に入っていない風な蜂屋は、バッグを持ってただ引きずられる唯の腕を離す気は無いらしい。大股で蜂屋は展示会ホールのある敷地を無言で抜け、諦めた唯は腕を掴む蜂屋の後ろを少し小走りで追いかける。
何かが焦らせているようにも見える蜂屋は終始無言のまま、でもその背は何よりも雄弁だ。
きっと、何かを恐れている?
多分、何かが怖い?
理由を話そうとはしない蜂屋の心の中までは流石に読めなくて、唯はただその背を追うことしかできない。
気持ちは例え伝わったとしても、まだ自分たちの間には決定的な見えない壁があって、それを取りはらうことは簡単には不可能なようだった。
正直、自分に同情しているんじゃないんだろうか? とも、思う。
泣きそうな顔にただほだされた訳じゃないのかな、でもまだそこまでは怖くて聞けない。
掴まれたいた手が外れ唯の手に移って、自然に手を繋ぐ形になった絡む手の平を見ながら唯は少し微笑む。もし、これが夢ならなんて幸せな夢なんだろう。
絶対に振り向かない背中に、まだ無音の「 」さっきは簡単に出てきた言葉は、もう近くにはない。
いつかもっとゆっくり、しっかり目を見て「好きです」と言える事が出来ればいいな。早足だった蜂屋の歩調は気がつくと唯の歩調に合わせてゆっくりになっていて、唯はスキップしたくなるほど嬉しくなる。
徒歩約十五分、結構な距離を沈黙のまま歩き通しで唯も正直疲れ果てた頃に、突然蜂屋がその足を止めた。俯いて眠りかけていた唯は、そのまま蜂屋の背中に突っ込む。蜂屋の腕に受け止められた。
「主任? 私、もう眠くて」
「分かった」
短い返事はあったものの、蜂屋が立ち止った場所は唯の見知らぬ場所で唯は少し暗いその路地を不思議そうに見渡す。
「ここ、どこですか?」
唯のアパートはホールから徒歩で十五分、同じくらい歩いた気もするけれど全く来たこともない場所だ。芯谷商事の近くでもないようだし、かといって唯の会社の近くでもないようだった。
少し行った所に街灯がある、唯のアパート周りにある電柱に付けられた物の様な感じではなく街灯としてデザイン的に立っているものだ。ここらは結構整備された場所だと気付く。
無言のまま、唯を受け止めたままで見下ろす蜂屋はやっぱり感情が読めなくて、唯は少し怖くなる。
少し、顔を歪ませた唯に蜂屋は低く声を抑えて囁く。
「嫌ならタクシーを呼ぶ、来るか」
その声は聞いたことがないほどに甘く。
今更、「来るか」の意味に気付いた唯の耳が一気に点火した気分だった。口を開けたまま返事も出来ずに、ただやっと浅い呼吸だけを繰り返す。
返事をしなくていけないのは分かっているのに、口から声が出て来ない。
「春日」
五年間も一緒にいて、馬鹿な事ばかりをして来て、一緒に飲みに行ったり仕事で文句を言ったりして全てを知っているつもりでいた。
でも今更だ、これから知る蜂屋は唯には完全な未体験の部分。
実際、呼ばれる声も触れる手も全て後輩だった時の物とは全く違う。全部、甘く熱くて、反応が出来ない。
一言も返事をしない唯の背に手を置いたままで、蜂屋が少し口端を上げた。ため息? 吐息が唯のつむじの髪の毛を揺らす。
「……春日、帰るか?」
「いやややや! だ、大丈夫です!」
切なく触れた低い声に動揺して、思ったより大きな声が出た。慌てて両手で唯は口を塞ぐ、もう一時間ちょっとで明日になる時間だ。怒られるかと見上げた蜂屋が、また全く見たことのない表情をしてて唯はただ俯く。
いつもの蜂屋とは違って、ペースが崩れる。いつも見たくふざけたりおどけたりは全く出来なかった。
「行くぞ」
唯の手も離してさっさとマンションの玄関に入って行く蜂屋に置いて行かれた唯は、慌ててその後を追う。エレベーターに乗り込んでも、蜂屋の部屋があるらしい階に着いてエレベーターから降りる時も、唯はいつもみたく上手く誤魔化すことが出来ずに途方に暮れる。
らしくなく、手も震えている。
通路の外を見ると夜景が見えた、いつもなら「うわー! 凄い夜景ですね!」とか、きっと言っているだろうな。そう思うのは、見たことのない蜂屋ばかりを今日見ているせいかもしれない。懐かしさを理由に戻ろうとしているからかもしれない。
窓の外を眺めたまま足を止めた唯の姿に、部屋の鍵を開けた蜂屋がドアを開けないままで振り返る。
「帰っても、いいんだぞ」
振り返って唯が見たその姿はやっぱり唯の知らない蜂屋で、唯は少し泣きそうになりながら首を振って蜂屋に駆け寄る。
まだ逃がそうとするこの人が、何を不安に思って突き離そうとしたのか分からないけれど折角届いた夢みたいなこの現実を止めたくは無かった。
促されるままに、玄関に入る。
ああ、こんな部屋なんだ。と思った。
どちらかというと殺風景で、必要最小限のものしか置いていないリビングのテーブルには何やら難しそうな営業関係の本が山積みされていて、その中には法律だったり簿記関係の物も入っている。
ソファーの上にはクッションも無く、勿論壁に絵すら飾っていない。何と無く気になって見渡したあちこちに写真も飾られていないようだった。
興味津々であちこちを覗き込んでいた唯の後ろに背広を脱いだ蜂屋が通り、飛び上がって振り返る。
「シャワー、浴びてくる」
「はははい! 行ってらっしゃい!」
全く、相手が動じていないのは如何なものか。いつも通りのペースを崩さずにワイシャツ姿でどうやらシャワーがある奥に消えていった蜂屋を、唯は脱力して見送る。こっちはもう感情フル機動だというのに、あそこまで全くのマイペースだと反応に困る。柔らかく、包み込んで来るソファーに腰掛けてみれば手足がかなり疲れていることに気付く。
「歩いたもんなぁー……」
むしろ走っていたぐらいだ、唯は両手を目一杯前に出し伸びをすると大きな欠伸が出た。余りに色んな事があり過ぎて、疲れた。
蜂屋の部屋はそのまま部屋の主人である蜂屋に似て、無愛想で飾り気がない。ただ過剰に話さない分静かな優しさも微かに見えて、それが部屋にも現れているとそう思った。
そしてそう思いながら、唯は落ちるように眠りに飲み込まれていく。
遠くで聞こえるシャワーの音が妙に愛おしかった。
揺れる。
ああ、揺れている。
足も手も重くて、もう体は汗と夜風の湿気でべたついている。缶ビール一缶だけとはいえ何も食べていない腹に流し込んだアルコールは、どんな抵抗しても瞼を落としていく。
揺れる。
ああ、揺れている。
瞼に触れた唇の感触と、前髪を撫でる手が気持ちよくて唯は声を出して笑う。その後を追って大きなため息が聞こえて、その手はいなくなる。
柔らかいものに包まれて、温かい。
少しの間まどろんで、唯は重い瞼を開ける。
開けた部屋が暗くてよかった、突然開けた目には灯りは眩しすぎる。
片手で目を擦って起きあがると、唯は寝ぼけ眼のままで周りを見回す。全く見たことのない場所だった。出てくる欠伸をそのままに、唯は大きなベッドから起き出す。布団がきちんと掛けてあった。
部屋の向こう側から、ボールペンが紙の上を走る音と本を捲る音が聞こえる。少し開いた隙間から明りが洩れていた。
「蜂屋……主任?」
「ん、起きたか」
壁にある時計を見ると一時間はたっていた。スウェットとTシャツ姿の蜂屋はテーブルに広がった書類と向き合っている、中身は唯には分からない。どうやら仕事中らしい。
シャワー後だけあって蜂屋のいつも上がっている前髪は柔らかく下りていて、少し歳若く見えた。初めて見たTシャツ姿のせいかもしれないけれど。
「……寝てました、ごめんなさい」
明るさにまだ慣れない目を手の甲で擦れば、唯のその子供っぽい仕草に蜂屋が苦笑した。蜂屋は手元の本を閉じてボールペンを寄せて立ち上がる。
寝室のドアとリビングの間に立っている唯の傍に蜂屋が近寄る、唯の鼻をシャンプーの匂いが擽った。腰に回った蜂屋の両手は優しく、唯は寝ぼけながら夢みたいだと思う。
「いい、寝てろ」
そう言いながら、唯の首に蜂屋は顔を埋める。背中の手が少し強くなって、唯は反動で目覚めた頭をフル機動させる。
「シャワー! 浴びていないんで、臭いんで余り近寄ったら駄目です!」
汗とかそんな可愛いものじゃなくて、もう涙も鼻水もさっきまで全開でその上今日の激務のせいで埃っぽく煙草臭い。「寝てろ」と言う割に少しずつ強くなる背中の腕に、蜂屋のTシャツの胸に両手を付いて必死で仰け反る。
両手の下が直に蜂屋の胸で、もう唯の顔は耳まで赤い。
「浴びてくるか?」
「えええええ!」
あからさまなその言葉に唯は緊張感のない返事をする、その反応はやっぱり蜂屋も同じこと思ったらしく盛大にため息をつかれた。今日何回目か、もう数えることも出来ない。
「Tシャツは俺ので良かったら貸すぞ、下着は……まぁ何とかしろ」
「……はい、じゃあお借りします」
赤面したままで唯は小さく頷き、蜂屋にTシャツとスウェットを借りる。もう全くと言って顔も見れない。早足でその場から逃げると、蜂屋はそのまま仕事に戻ったようだった。入った洗面所の向こうからまたボールペンの音と書類を広げる音が聞こえて唯は逃げ込むようにシャワーに入る。
シャンプーは蜂屋と同じ匂いがした。
ちょっと念入り過ぎるほどしっかりあちこち洗って、バスタオルで水気を取った体に借りたTシャツを着ると半袖のはずなのに七分袖になった。スウェットは長すぎて裾を二十センチ折って、ウエストもかなり紐を引っ張った。
不格好なその姿を洗面所の鏡に映して、唯は噴き出しそうになるのを堪える。歯ブラシは一本しか無くて、妙に安心した。
脱いだ自分の服を折りたたんで洗面所のドアを開けると、丁度冷蔵庫を開けている蜂屋と目が合う。
「お借りしました!」
「おう、飲むか?」
渡された缶を両手で受け取って、小さく頷く。残った仕事を片付ける気らしい蜂屋の後ろ、ソファーに小さくなって腰掛けた唯は蜂屋の背中から手元を覗き込む。几帳面な角ばった文字が書類の上に並んでいる。
蜂屋主任、桜坂さんの事まだ少しは好きですか?
私と桜坂さん、割合で言ったら何パーセントですか?
もう、拒絶なんてしないですよね?
もう、絶対にただの後輩なんて言うこと無いですよね?
その言葉はまだ言えなくて。
唯は蜂屋の背中に額を乗せる、軽い震動に蜂屋が顔を上げた。
「どうした」
「何、でもないです」
無理に笑って見せれば、蜂屋がまた少し顔を歪める。そのまま唯の頭の後ろに手が伸びた、引き寄せられる。唇が触れた。
今だけは、幸せだから何も考えないでおこう。刹那的な考えは五年間の片想いの弊害だ、このままいつかこの刹那的な気持ちも長く継続していけばいい。
一瞬で終わらなければ、もういい。
座った唯の上に乗りあがって強く唇を合わせてくる嵐の様な熱さに、目を思いっきり瞑る。夢にまで見た手と体は予想の上を行き、唯はもう反応に精一杯だ。
ソファーの背もたれに付いた蜂屋の手の平の下で、軋んだ音がした。
出来るだけ唯に体重を掛けないように考えてくれているのが、とても嬉しかった。瞼に唇を落とされて、くすぐったさに唯は肩を竦ませて笑う。
もう、離れていきませんよね?
絶対に、もう一緒なんですよね?
そのままTシャツに入るやっぱり少し冷たい手の平の感触にまた、笑った