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「  」  作者:
22/41

妄動

 小さい頃、ずっと月に手が届くと思っていた。

 わざと精一杯手を伸ばして背伸びをしたら触れそうな月を見上げることは、絶対に届かないと知った小学生の時も中学生の時もずっとしていた。

 それほどに焦がれた月は大人になった今でも、天体望遠鏡で見ることができてウサギもいないと知っているのに見る度に妙に心が騒ぐ。

「春日」

 ガードレールに腰掛けたまま月を仰いでいた唯を、低い声が呼んだ。唯は顔だけを蜂屋に向けて眼だけで笑って見せる、そして小さく「ども」と言った。

 相変わらず夏なのにスーツの上下をしっかり身に纏って暑くないんだろうか、そう心配しながら眉を顰める唯の横に、暑さは感じさせない無表情のままで同じように蜂屋が腰掛ける。

 ああ、熊のようだ。動物園でどこか見た事のある仕草だと思ったら、それは熊だった。大きな体といい、濃い色のスーツと黒く短い髪はそのまま熊だ。

 横を向いて噴き出した唯に、蜂屋は眼だけを細めて睨んでくる。

「何か馬鹿にするようなこと考えただろう」

「いやいやいや、熊に似てると思っただけですって!」

 あ、ぽろりと言ってしまった。

 蜂屋は「熊」と一言呟いて、横を向いて大袈裟にため息をつく。どうやら褒め言葉には取って貰えなかったらしい。唯はジーンズに包まれた足を開いてガードレールに腰掛けたまま、バッグに入ったビールの缶を手渡す。最初は女らしくお茶かジュースでもと思ったけれど、やっぱりいつも通りの方を取った。もう、飾っても仕方ない。出会った頃ならいざ知らず、もう五年以上も近くで見ている。

 夜も遅いせいか妙にここらは静かで、微かに道路を走る車のタイヤの音が聞こえてくる。

 あとは、夜風が木々を揺らす音。風は生温く寒くはない、ビールにぴったりの気温だ。

「おう、気が利くな」

「あはは、いい女でしょ?」

「ああ」


 一瞬、息が止まった。


 何気なしに言った言葉だって分かっている。この人はずるい人だ、期待してしまうのを分かっていてこういう台詞を吐くんだ。

 唯は持ったビールを半分一気に煽り飲むと、今の仕事の事を話そうと蜂屋を振り返る。蜂屋は月を仰ぎ見ながらビールを飲んでいる、咽喉仏が動いてその時分には無い姿に目を奪われる。その視線に気づかれないように、唯はすぐに月に視線を上げた。

 ああ。月がさっき見た時よりもずっと高くなっている、もう絶対に手が届かない。

「今日の仕事はですね」

「春日」

 言葉を選びながらぽつぽつと話しだした唯の声に、蜂屋の声が重なって唯はそのまま黙って首をかしげて振り返る。期待してしまう、そんな声で呼ばないで欲しい。

 唯の視線を少し逸らして蜂屋は口籠る、やっぱり言い辛い事なのかと唯は苦笑して俯く。


「桜坂の、結婚式の話、聞いたか?」


 やっぱり。

 期待して浮き上がった心がしょんぼりと肩を落とす、本当にこの人は酷い人だ。残酷で、それでいて本当に一途だ。

 ばれないように小さく深呼吸をして、唯は口を開く。辛かった。

「聞いていませんよ? 結婚するのは知っていますけど、何かありました?」

「いや、お前の所に披露宴を頼むって」

 結婚式などの対会社ではない個人的なセレモニーやパーティーの受注に関する書類を唯が見たのは、つい先日のことだ。

 ウエディングプランナーの経験もある社員を使って意欲的に依頼を取ると豪語していた話は、親会社である芯谷商事に行ったんだろう。あと恐らく三カ月後の桜坂の披露宴は、芯谷商事の本社関係と取引先関係の集まるいい宣伝になる。

 きっと、それには元の会社である流れで唯も駆り出されるに違いない。

 本当に笑えない。

「うわ、責任重大だなぁ! きっと、私も企画に入りますね!」

 おどけて言う声の向こう側に気付いて欲しい。

 残酷ですよ、蜂屋主任。もう精一杯なのに、彼女と言い桜坂と言いもういっぱいいっぱいなのに。

 そっか。

 そっかぁ。

 やっぱり、そうなんだ。

 まさか告白なんてしてくれるはず無いよね、だってもう何度も言いかけた唯の恋愛関係の言葉は封じられてきた。

「その話し合いには、同期だから俺等も加わることになった」

 ああ、それはきついなぁ。

 唯は俯いたままで缶ビールのプルタブを持ち上げると、弾いたプルタブが缶に打ちつけられて小気味よい音がした。中を振ってみると、もう残りが少ない、もっと買ってきたら良かった。自棄酒はケチらない方がいい、木坂の声が聞こえるようだ。

「あはは。じゃ私は仕事としてですが、打ち合わせで蜂屋主任と顔を合わせることになりそうですね!」

 ああ、きついなぁ。

「そう、だな」

「ウチも経営状況いい訳じゃないんで、そんなにサービス出来ないとは思いますが頑張りますね」

「ああ、頼む」

 ガードレールから飛び降りると、唯は月を仰ぐ。

 頼む、なんて言っちゃってさ。自分の彼女でもないのに。


「蜂屋主任?」

「ん? なんだ?」

「蜂屋主任って、彼女いるんですか?」

 自然に聞けて、唯自身が一番驚いた。唯の質問に、蜂屋は絶句して小さくため息をつくとビールを煽り飲む。唯はその一連の流れをただ見つめて、ただ待った。もどかしくて手に持ったビール缶が軋む。

「今、は、いない」

 意味ありげな返事だ。言うなり蜂屋はガードレールから立ち上がって、缶を片手で簡単に潰す。スチール缶とはいえ随分なひしゃげぶりだ、唯は自分の持っていた缶を見下ろす。真ん中だけが少し凹んでいた。

 数メートル前に立つ蜂屋は、そのまま唯を見つめる。

「気になるか」

 必要な言葉が絶対的に足りないその人は探るように唯を真っすぐ見つめて来て、唯は眉を顰める。

 この人は一体何の言葉を自分から引き出したいんだろう?

 出てこい、私の勇気。

 無音の「  」何か入れたい。

 気になりますよ、だって知っているでしょう? 

 もう五年間もあなたに片想いを続けてきているんです。

 そう言って、正直ぶん殴ってやりたいと思う気持ちは少し乙女心とは離れているかな?

 

「春日」

 黙ったままで立ち竦む唯の手首は蜂屋に突然掴まれて、唯は衝動的に顔を上げる。

 気付くとあっという間に近づいて来ていた蜂屋の身長は高く、唯は見上げながらも首が痛いと何と無く思った。掴まれた手首に絡まる指は結構力が入っていて、唯は少し引いてみる。

 強情な手は離されることも無く、びくともしなかった。


 ああ、苦しいなぁ。辛いなぁ。


 泣きそうな顔で唯が蜂屋を見上げてみれば、珍しく蜂屋が顔を顰めてくる表情が見える。そのまま、手首を掴んでいない蜂屋のもう一方の手は唯の頭に乗る。

 撫でる大きな手。

「泣くな、もういい」

「泣いていませんよ」

「ああ」


 黙り込んで沈黙。蜂屋は視線を少し足元に落として「春日」と囁くように唯を呼ぶ。

「はい」

 何か、言われそうだと勘で気付いた。だから、少し声のトーンを落として、答える。


「……もう。いい加減、俺はやめろ」

 

 話したいことは、これか。


 ただそれだけを話す為に、ここまで躊躇して。確かにそれは物凄く気を使う。


「泣くな」

 涙が頬を流れているのに、蜂屋の声で気付いた。

 蜂屋の丁度胸の辺りに視線を置いて、唯はただ涙を流す。蜂屋がそのまま引き寄せて、唯を抱き締めた。ずっと前から望んでた初めての抱擁だった。

「少し前から、いつも傍にいる時はそんな顔をしている」

 耳元で低く熱い声が聞こえる。背中と頭に回る腕と手の平は「やめろ」という拒絶の言葉とは違ってどんどん強くなって、唯はすっかり蜂屋の胸に沈み込んでしまっている。

 だらり、落ちたままの唯の手首から蜂屋の手はとっくに外されていて、唯はそのまま手を降ろしたままでただ蜂屋に寄り掛かっていた。


「そんな辛いなら、止めろ」


 吐き捨てる声が唯の耳に触れて、唯はしゃくりあげる。

「そんな、簡単には行きませんよぅ」

 泣く声により一層蜂屋の腕は強くなって、もう身じろぎも出来ない。

 知っているでしょう? 五年間という想いは簡単には手離せない、もう意地みたいなものでただ引きずって次の恋愛が出てくるまでずっと待つしかないのだ。

 下手くそな、臆病だけどそれしか出来なかった。

 好きな人には、ずっと好きな人がいて、絶対にこっちを向いてくれないのが分かっていたから。

「悪かった、今まで傍に寄せるのは怖いくせに離すのも正直躊躇した」

 じゃあ、引き寄せてくれればいいじゃんか。

 そんな告白みたいなこと言って、離れようとするなんてずるい。

 可愛い後輩でも、同情でもいいから。引き寄せてくれればいいじゃんか。

「責任、取って下さいよぅ!」

 もう、こんなこと聞いて諦めるなんて無理だよ。

 蜂屋のワイシャツの胸部分が濡れるのも構わずに、唯は顔を押しつけた。ああ、ため息をついている。蜂屋の胸が大きく上下して、唯はまたしゃくりあげる。

「お前は可愛い後輩だよ」

 またそんなことを言って、この人は臆病な人だ。

 宥めるように、背中が叩かれる。

「じゃあ、なんで傍に置いておいたんですかぁ!」

「……悪かった」


 無音の「  」嵐のように言葉が滑りこむ。


「本当に恋愛対象には見れないんですか? 絶対にもう期待は出来ないんですか?」

「……春日」

「あと何年でも待ちます、もう五年も待ったんだから後五年でも十年でも!」

「……春日」

「諦めるなんて嫌だよぅ! もう後輩でも子供でもいいから」


 一瞬、風が吹いた気がした。

 両手で頬を押さえられて、物凄い力で持ち上げられる。

 熱い。

 押しつけられた唇に唯はもう何も考えられなくなって、手が蜂屋の背中向こうで泳ぐ。

 空に月が見える、綺麗な三日月だった。

「春日」

 離れた唇から、自分の名前が呼ばれる。涙は衝撃で止まっていて、唯は震える声のままでもしっかりとした声で「はい」と答える。

「きっと、泣くぞ。俺は女の扱いは上手じゃない」

 傍目には妙な宣言だった。でも、唯の顔を覗き込む蜂屋は至って真顔で、唯はそのままその真摯な瞳を見つめる。

 そんなの昔からずっと知っている。

「はい」

「不安に思って、離れたくなってももう無理だぞ」

「……はい」

 逆に何を不安になっているか、唯の方が蜂屋に聞きたい。それほどに悲痛な顔を蜂屋はしていて、見上げたままで唯はまた大きくしゃくりあげる。

 悲鳴に似た潰れた声が咽喉の奥から出てきた。

「……分かった」


 何が分かったのか、唯には理解できないまま蜂屋が唯の体を離す。

 涙で酷い唯の顔を、蜂屋はスーツのポケットから出したハンカチで乱暴に拭った。ティッシュもついでに渡されて、鼻を拭く唯の前で蜂屋は神妙な表情をしている。


 蜂屋のその表情が、唯には少し不安だった。

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