起動
その人に、初めて会ったのは、その時でした。
短大卒業後入社した会社は、たった1年で退社した。
上司との食事も出張も断った自分が悪いのかもしれないけれど、小さな会社でまだ他に部下だって社員だっているのに、何故自分にだけ寄ってくるのか、凄く嫌だった。
持ち前の強い口調で怒鳴ると、自分にだけ書類が回ってこなくなった。
時々、子供みたいな嫌味や嫌がらせもされて正直仕事だけはしながら、途方に暮れた。
私は、いつもこうだった。
少しでも、後少しでも我慢したらよかったんだろうか。例えば手を握られた時とか、例えば、飲みに二人で誘われた時とか、例えば女性社員に寄ってたかって詰られた時とか、言い返さないで俯いたまま泣いてしまえばよかったんだろうか?
それはずっと昔から。
「気が強い」「男勝り」「女っぽくない」「女に見えない」「話しやすい」「一緒にいて楽しい」
自分に貼られるたくさんの評価のレッテル。
「言い方がきつい」「怖い」「可愛くない」「相談は出来ない」「恋愛には興味なさそう」
簡単に言われる言葉は意外に傷つくことも多くて、ただひたすらに心の中でいい言葉に変換する。
「女っぽくなくて、話しやすいんだよね」
そうか、話しやすいんだ。じゃあ、ずっと言わないでおこう。
「女に見えないから、安心する」
そうか、安心するんだ。じゃあ、ずっと言わないでおこう。
「お前の言葉って飾りが無くて、結構言い方きついよな」
飾りが無いって、いい言葉だけど、きついんなら少し話さないでおこうかな。
「恋愛に興味なさそうだよね、なんかあっさりしていて楽」
楽、かな。じゃあ、ずっとずっと言わないでいよう。
私の「 」(カギカッコ)の中はいつも無音。
どんなに例え、泣き叫んでいたとしても。
どんなに例え、怒っていたとしても。
どんなに例え、悲しかったとしても。
そんなに例え、それが愛おしく苦しく切なくもどかしかったとしても。
私の「 」(カギカッコ)の中はいつも何もない。
それは、もう慣れ親しんだ当たり前の感覚。
言わないでいれば、一緒にいられる?
言わないでいれば、傍に置いてくれる?
言わないでいたら、いつか振り向いてくれる?
勿論、自分の中でそんなことなんて絶対ないって知ってる。恋は「瞬発力」だって何かの雑誌で言っていた。でも長い時間抑えつけてきた瞬発力は、私の中で心の奥底でうずくまって膝を抱えて泣き叫びながら絶対に出てくることが無い。
「好きな子、出来たんだ。いつか紹介するよ」
「お前にいい子だって言われると、安心するから」
「今度、一緒に遊ぼうよ。彼女と」
無音のカギカッコ。頬を膨らませて、腰に腕を当てる。
あなたがそれを望んでいるんだと分かる。私には、縋りつくのも泣き叫ぶのも似合わない。
「いいよ、仕方ないなぁ。全く、あんたは私がいないと駄目なんだから!」
嘘だよ。
「今度、彼女にしっかり忠告しとかないと! しっかりあんたの事見張って無いと駄目だよって!」
嘘だよ。
「ラブラブにならないと、邪魔しちゃうんだからね!」
嘘だよ。
本当は言えば良かった。
「好き」だって、本当は「好きだった」って。
もっと早く、もっと早く、もっと早くに。
「あー、私だって恋がしたいなぁ!」
「唯なら、絶対にいい男捕まえられるって! 俺が保証する!」
私の心の中はいつも「 」
怯え、逃げて、黙ってしまうだけで。肝心で重要な事は絶対に口にはしない。
もう、その感覚に慣れ親しんでしまって痛みも苦しみも感じなくなっている。
その人に、初めて会ったのは、その時でした。
「蜂屋、新人を第一会議室に皆連れて行って」
「はい」
目の前にやってきた威圧感ある男に唯は仰け反る。185センチはありそうな体付きは体育会系の筋肉質なもので、無表情な上に無愛想な蜂屋と呼ばれた男はじろりと唯を睨みつける。唯は少し悪いと思いながらも怯えながら、礼儀として挨拶はする。
「あ、の。こんにちわ」
「ん」
短い返事ですぐ蜂屋は唯に背を向け、前を歩く社員に声を掛けいくつか指示をあおいでいた。取り付く島も無いその態度に唯はまだ気慣れないグレーの制服のベストを指で挟んで引っ張る。
ネズミ、みたい。どう見ても洒落っ気も何もない制服は、配属された庶務課も他の女性社員も皆一緒らしい。先程終わった新人を迎えるための大きな式典で、唯は確認したばかりだ。
ネズミの女性の間に挟まれるまだ気慣れない風のスーツ姿の男性社員。
それは去年、自分がもう既に終わっている気恥ずかしい感覚で。
前の会社で心身ともにおかしくなった唯は、実家の両親に諭された。
我慢することは決して必ずしもいいことではないこと。思い切って止めてしまうのもそれもまた正しい選択になることもあるということ。
それは自分の今まで培ってきた価値観をひっくり返してどこかにブン投げる行為で、唯は何とか今のまま同じ会社で我慢していくと言い張ったものの、その時丁度仲良くしていた男に彼女が出来たばかりで心身ともに疲れ切っていた唯は、長く膝を突き合わせてゆっくり諭す親の言い分を取った。
私の心の中はいつも「 」
自分が壊れて行くのを見ている両親には、悲しんで貰いたくなかった。
結局、唯は親戚が結構高い地位についているらしい、芯谷商事の入社試験に捻じ込んで貰うことになった。
芯谷商事は証券・不動産・経営等多数の子会社を束ねる大企業だ。
17階建ての巨大な本社ビルには、建設事業課・総務課・設計課・企画課・営業課他いくつもの部署がありビル内部だけで数千人の社員が日々勤務している。
初めての大企業に、唯の驚きは物凄いものだった。正直最初から紹介して欲しかった、と思ってしまったのは心の中に仕舞った。
「おい」
突然、頭の上から声を掛けられる。俯いて制服の生地を触り退屈しのぎをしていた唯は、低くどすの利いた声に言葉通り飛び上がった。
「は、はい!」
「……スカートの横、開いてる」
「え、ええええええええええええええええ!」
その人に、初めて会ったのは、その時でした。
私には、それからずっと言えない言葉がある。