律動
「春日さん、このセミナーの書類! 地図、足りないんだけど!」
「ああああ、ごめんなさい! こんな所にあります!」
「春日。展示会の打ち合わせ、いつだっけ?」
「……さっき、言いました。七月十日十時です」
忙しい毎日は始まって、唯は引き継ぎも早々に主戦力として働くことになったのは嬉しかった。
忙しく走り回る日々は制服じゃなく、下手するとイベント会場はTシャツ一枚で走り回る。汗が流れてもとにかく書類や看板を持って走り回る日々は、高校時代の部活を思い出すほどに体育会系だ。
正式な人事が芯谷商事本社各部署にファックスで回ったのは、六月一日だった。
その時唯は既に出向先にで勤務していて、細かい取引先や今持っている契約内容を引き継ぎ中だったせいで鳴り響く携帯電話に唯が気付くことはなかった。
引き継ぎも最終日だったその日は朝からずっと忙しく携帯電話はバッグに仕舞ったままで、気付いたのは夜中。メールはなく、着信だけが残されていた。名前は、やっぱりノートの受取人だ。
木坂もやっぱり人事が回る当日にメールをした。
最近、いないことに気付いてはいたものの仕事が忙しく、庶務課に聞きに来ることが出来なかったようだった。夜に返ってきた木坂のメールは遅い報告に少し怒って、あとはノートを持っていた蜂屋の様子を簡単に一行で説明してきた。
『ノート見てファックス成功したみたいだよ』
成功したんだ、と唯は携帯電話を持って大爆笑して、それから部屋の中で少し泣いた。
仕事は忙しく、深夜に亘ることが多い。特に新車発表イベントに駆り出された時は、二日連続で帰宅できずに寝袋常備になったこともあった。
時にはスーツで企画会議に参加したり、海外の取引先と対応を迫られたりして大慌てな毎日。あっという間に蜂屋のいない毎日は過ぎていく。
一日を耐えれば、一週間を耐えて、一週間が大丈夫なら、十日大丈夫だった。木坂とも蜂屋とも会うことが無く、そうやって気がつくと一か月が過ぎていた。
仕事は慣れてくるとサイクルが分かって来て、たまに早く終わった時なんかは芯谷商事本社側に行ってみようかと足を向ける時もある。
でもやっぱり、勇気がわかなくてそのまま帰る。
そんな毎日だった。
「春日さん! もうこれ、飲んじゃいなよ」
「いやいやいや、もう飲めませんって! 先輩こそどうぞ!」
小さな居酒屋は、仕事帰りの唯達の行きつけだ。何人かの先輩と社長の愚痴やイベント主催者の愚痴を言い合う、大体女の先輩が二・三人それと唯で行くのが恒例になっている。
慣れない唯に会社の先輩は凄く丁寧に仕事を教えてくれて、唯は物凄く感謝している。
少し油ぽい木製のカウンターで、店員から受け取ったジョッキを一番端の先輩に渡せば、ほろよく酔っぱらった横にいる先輩が唯に絡んできた。まだ一杯しか飲んでいない唯の酒の進み具合に文句を言って、首に腕を回してくる。近づいてくる息が酒臭い、カウンターには日本酒が置いてある。
「うわ、先輩。酒飲みましたね! 明日の打ち合わせ、絶対遅刻しないで下さいよ!」
「んー……考えとく」
こりゃ駄目だ、と頭を抱えて唯は横を見る。横に並ぶのは、女の先輩が二人。そういえば居酒屋に行くのは決まって蜂屋と木坂とだったな、とふと思い出す。
時折戻ってくる走馬灯の様な思い出は、唯の心を少し切なく温かくさせる。きっと今なら、上手く蜂屋におどけて話せるような気がする。
「春日! 聞いてる? 今日のクライアントが」
「はい! 聞いてます! 確かに少し連絡が遅いですよね!」
「そう思うでしょー?」
愚痴の始まった先輩の前にある日本酒の枡とウーロン茶のグラスを入れ替えて、唯はカウンター内にいる店長におしぼりを頼む。この先輩は酔い始めると長い、早めに切り上げるに限る。
貰ったおしぼりを先輩に渡して、唯は少し居酒屋奥に行ってタクシーを頼む。先輩を二人とも早々に乗せてしまおう、今日のクライアントはちょっと癖があって結構現場が殺伐として大変だったようだ。
暖簾向こうにタクシーのランプが見えて、唯は走って戻ると会計が終わっていた。
ひらひらと片手を振りタクシーに乗り込んでいく二人の先輩を見送って、唯は小さくため息をつく。
外はもう夏、七月に入った夜の風は生温くべたついている。
パフスリーブで紺色の汗臭いTシャツは少し埃っぽく、今日の激務を物語っている。看板と、間仕切りばかりを持ち歩いていた気がする、展示会ブースの仕事はまだ明日も継続中で明日ももっと汗っぽく埃っぽくなる。
「色気、ないなー……」
小さい声で唯は愚痴を呟いてみると横を通り過ぎたOLが驚いて振り返って、唯は苦笑して頭を下げる。
空は星空、時刻はPM9:00。唯は持ったバッグを振り回しながら、鼻歌を歌って気分よく足は芯谷商事本社に向かう。
見慣れた歩道、歩き慣れた歩道。たった一カ月ちょっとしかたっていないはずなのに、気付かない場所に新しい洋菓子店が出来ていたりお洒落な花屋があったりして、唯はすこぶるご機嫌で歩いた。
近づく度に少しずつ胸を締め付ける想いは苦しいけれど、酔っぱらっている今ならどうにか流せそうだ。そうやって散歩気分で歩く。
芯谷商事本社の大きなビルが高層ビルの隙間から見えてきて、唯は少し小走りになった。
どうせならもっと近くで見たい。
どうせならもっと前で見たい。
勤務している時はそんなに会社に愛情を感じたことがなかったのに、離れた途端に愛おしくなるなんて不思議だ。それは少し恋愛に似ているのかもしれない。
久しぶり、元気だった?
私は大丈夫、頑張っているよ!
「春日」
小走りしていた唯は足を止める、妙に久し振りな声が聞こえた気がした。周囲を見回しても誰もいなくて、唯は幻聴だと苦笑する。
酒はこれだからいけない。時折聞こえる気がする声はいつも鮮明で、唯は記憶と言うものの凄さをいつも思い知る。唯は少し真顔になって、遥か上に見える芯谷商事本社を見上げ歩き出した。
その手を、誰かが掴んだ。
「春日」
振り返った先に、蜂屋がいた。
走ってきたのか、大きく息を肩でして一度唯から手を離して膝に手をつく。俯いた蜂屋のつむじが、遥かに蜂屋よりも身長が低い唯にも見えた。
「ども」
「……おう」
いつも通りの挨拶に唯は噴き出して、蜂屋のつむじを人差し指で突く。絶句した蜂屋は呆れた表情で顔を上げて、その姿を見て唯はまた噴き出した。
「お久しぶりです、元気そうですね」
「ああ、お前も忙しそうだな」
「はい! もうバリバリ働いてますからね!」
「そうか」
本社は殆どの電気が消えていて、今日は残業している社員はほとんどいないようだった。生温い風の吹く中に蜂屋は上下のスーツ姿で、良く暑くないものだと唯は思う。
その蜂屋の姿を街灯の明かりが照らしていて、街灯は小さく点滅した。
「今日は残業ですか?」
「ああ、草川の仕事を手伝っていた」
「ほほー、いい先輩ですね」
「今頃、知ったか」
知っていたよ、ずっと。
何気ない会話をただ何気なく続ける。でもその会話にも終りが来て、また会えない毎日が始まる。互いに黙り込んで、沈黙。ちょっと前までこんな沈黙は流れることは無かった、きっと少し自分の方があまり飾らなくなったんだろう。
「春日」
「はい?」
笑いながら首を傾げて見せた唯の笑顔は歪んでいないと思う。辛くて泣いていた時よりはずっと楽になった気がした、今はただ愛おしいだけだ。
無音の「 」もうその言葉を入れることはしないけれど。
前に立つ蜂屋は前よりも、何故か幼くなった気がした。言い淀んで出て来ない言葉がもどかしいのかくぐもった声は俯いて、唯には何を言っているのか聞こえない。
「ノート、助かった」
一言それだけが出てきて、唯は噴き出す。そんなことをこんなもどかしく言うなんて、本当に面倒臭い人だ。
噴き出した唯を眩しそうに蜂屋が見て「笑うな」と短く言った。ああ、なんて幸せなんだろう。
でも、もう終わりにしなくては。
笑いを収めて、唯は踵を返す。少し、蜂屋の表情が歪んだような気がした。
「じゃあ、私もう帰りますね! 明日、展示会ブース設置で早く起きないといけないんです」
返事はない。
「蜂屋主任も、早く帰らないと遅刻しちゃいますよ!」
やっぱり、返事は無い。
黙ったままの蜂屋を覗き込み、唯は首を傾げる。覗き込んだ唯の視線と、ただ前を見る蜂屋の視線がぶつかった。
「電話にどうして出ない」
低い声は少し責めていた。
「どうして出向の事を教えなかった」
黙って、唯は蜂屋を見つめる。途方に暮れた。
無音の「 」唯は誤魔化す言葉を必死に考えている。
「春日、俺は」
「いやいや、蜂屋主任! 忙しくて、電話なんて出来なくて大変だったんですよ!」
唯は俯いたままで後ずさりして、両手を前に出す。
「毎日、引き継ぎばかりで帰ってくるの深夜だったし」
数メートル一気に離れる。
「大体、内示の事なんて言っちゃ駄目じゃないですか! 正式な人事があるまで!」
「春日」
「私、もう行かなきゃ! じゃ! 蜂屋主任、お元気で!」
「春日!」
脱兎、の如く逃げ出した。
走って、走って、ただ走って、追いかけて来ないのを確認してやっと唯は立ち止まる。
バッグの中の携帯電話が鳴っている。
律動的に、鳴り響いている。
その電話に出ないまま、唯は明日の展示ブースの事を無理に考えた。
バッグの中の携帯電話はずっと律動的に鳴り響いている。