異動
月曜日の朝から、唯は課長から会議室に呼び出される。珍しく課長の珍しい顔を見て、もしかして解雇でもされるのではないかと指が震えた。
紺色のビニールが貼ってあるパイプ椅子に腰掛けるように課長に指示をされて、唯はかなり動揺しながらも腰を下ろす。みしり、と軋んだ音がした。断じて重かったせいでは無くて、パイプ椅子は総じてそんな音がする。
課長は長机の上に数枚の書類を並べて、唯の方へと押し出してくる。その書類は芯谷商事の子会社の内でも結構大きな方で、本社とは少し離れた場所にある。確か、イベント業を中心にしていたはずだ。業績も確か悪くない。
「これが、何か?」
不思議そうに首を傾げた唯に、課長が読むように指示してくる。内示のようだった。
出向を命じる。
その下には自分の名前があって、唯は驚く。日付はもう一週間しかない、余りに急な事で唯は立ち上がった。
「聞いてません、どういうことですか?」
「金曜日に来たお客さん、いたでしょ?」
課長は激高した唯に動じず、マイペースに話を続ける。不満げな表情のままで、唯はまたパイプ椅子に体を戻した。
「……はい」
「あの時にはもう春日さんの出向の話は人事から来てたんだけど、どうしても本人を見てみたいって社長自らが来られてね」
あの和菓子店の和三盆は、その為だったのか。唯は今更ながら気付く。課長がポケットマネーでお菓子を買って来いということは、今まで一度として無く、訪問してきたのがそこまで高い地位の人間であるならば納得がいく。
唯の前の勤務先はイベント会社だ。小さく、一年しかいなかったものの仕事は嫌いではなかった。きっとそのことも今回の人事に関係しているに違いない。
「ぜひ、早い内に来て欲しいと言っているんだ。いいことに春日さんと片岡さんは分担作業してないから引き継ぎないでしょ?」
「勝手なこと言わないで下さい! そんな簡単にすぐ仕事は替われません!」
「だって、向こうの退職者が今週中に有給消化に入るみたいだから。春日さんには明日からにでも引き継ぎに行って貰いたいんだよね」
「明日……ですか?」
「そうそう、頼むよ」
気楽な口調で言った課長はそのまま唯の肩を軽く慰めるように叩いて、会議室を出ていった。
唯はそのまま、パイプ椅子に沈み込んで頭を抱える。手を伸ばして、書類を手に取れば書いてある会社の住所は余りにも本社から遠く、丁度唯のアパートを真ん中に置いて両端になってしまう。
どう考えても、通勤途中や出先で偶然に蜂屋に擦れ違うことは不可能だった。会社も違うのならもう二度と会えないのかもしれない、そう思っても決まってしまったものはどうやっても覆すことはできずに唯は明日からここに通勤しなくてはいけない。
ただ擦れ違う偶然の、なんて奇跡なことか。
ただ同じフロアだったことの、なんて素晴らしいことか。
内示が正式に人事通達として回るのは一週間後、その時にはもう唯は違う会社で勤務している。挨拶も出来ない。
ポケットに入った携帯電話を唯は出して、蜂屋の番号を画面に表示する。数秒間黙って見詰めて、唯はそのまま画面を閉じた。
それが決まったことならば、我慢しなくてはいけない。
木坂にはあとで連絡しよう、きっと心配するだろうから。
金曜日に泣きながら寝た唯をベッドに移して、木坂は軽く部屋を片付けて帰ったらしく、起きると意外にも綺麗になっていて驚いた。テーブルには「食事はするように」と汚い走り書きでメモが残されていて、腫れ上がった瞼で肩を揺らして笑った。
鍵はドアポストに入っていて、ただ申し訳なくて自分の馬鹿さ加減を責めた。
見るだけなら、いいかな。と思った。見てるだけなら、誰にも迷惑かけないかな。ただ、そこにいるだけで存在を感じるだけで、ただそれだけでもいいのかなって思っていた。
会議室を出て庶務課に戻ると、片岡が視線で何の話だったか窺ってくる。課長はまだ戻って来ていない、人事部に行っているのかもしれない。
唯は重い身体を自分の机の椅子に沈めて、片岡に笑って見せる。
「出向、明日から引き継ぎに行ってだって」
「明日から! 何それ、早すぎる」
「なんか退職者がいて、有給消化に入るからって。まず向こうで引き継ぎしてから、正式な人事が出たら休みでもこっちの私の持ち物片付けに来るね」
「……そんな」
明るく言った唯の声に片岡は絶句して、泣きそうな表情を浮かべている。唯はわざと声を張り上げて、課長から貰った書類を片岡に見せる。
会社用のパンフレットは取り扱うイベントの説明を事細かく書いてある、企業用のパーティーや一般の結婚式までも取り扱うらしい。
「ほら、見て! 結構派手な感じの会社だよね! 私、前の会社イベント関係だったから結構楽しみでさ!」
無理やり片岡に見せると、ぎこちなくほほ笑み返された。そんな片岡の表情は見ないままで唯は楽しそうに笑って見せる、顔が強張りそうだと思った。
庶務課と営業課。すぐ横だった短い距離は明日で一気に離れて、きっと唯がいなくなった後も何事も無かったように毎日が過ぎるんだろう。
引いた机の引き出しの中にピンクのノートが見えて、唯は顔を歪ませる。鈴木に忠告されてから時折書き足して、結局仕事合間に完成させてしまった蜂屋専用の説明書。
見慣れた言葉ならきっと勘違いしてしまう蜂屋の為に、デジカメまで結局持ち出して作った。
ピンクでレースのついたノートなら、もしかして捨てられるだろうか? でももういいか、捨てられても。
表紙を指でなぞる。
「遥、お願いがあるんだけど」
「ん? 何? 引き継ぎ?」
「このノート、人事が出た日に蜂屋主任に渡してくれない?」
「これって」
「うん、説明書」
躊躇して受け取った片岡に、苦笑する。
これ位嫌がらせしてもいいよね? ありがとうも言えないままにきっともう会えなくなるけど、でもこれ位五年間頑張ったんだもの。蜂屋の彼女はきっと明らかに女性からの贈り物であるピンクのノートを見て嫌な思いするかもしれないけれど、そうしたら捨ててくれればいい。
「いいの?」
複雑な表情で言う片岡の肩を思いっきり唯は叩いて、引き出しの文房具を近くにあった紙袋に入れた。いいも何も、それしか方法はない。
「だって、渡さないとまた破砕機の汚名を返せないでしょ?」
「そう、だけど」
言い淀んだ片岡の声と同時に庶務課のドアが開き課長が入ってきて、唯も片岡との会話を強制終了させる。一つ一つ引き出しの中に入っているファイルやノートを紙袋に仕舞うと、意外に結構な量になる。
ある程度まで引き出しをすっきりさせてから唯は小さくため息をついて、腕まくりをして心配そうに見つめている片岡を振り返った。
「さ! 最後の庶務課の仕事、頑張りますか!」
立ち上がって、文房具と日用品の箱が並ぶ棚に向かう。今日は確か、整理をしようと思っていたんだった。最後の最後で全く庶務課の外に出ない仕事になるなんて皮肉だ。
そう思った。