不動
今日は朝からずっと雨が降っている、もう切れそうな雲の切れ間はなかなかその隙間を開かなくてやきもきする。
静かな雨はずっとコンクリートを濡らして、時折上を見上げる唯の額を濡らす。
ネズミ色の制服は何度見ても野暮ったく少し外に出るのが恥ずかしい。上に何か羽織って出てきたら良かったと唯は後悔したものの、今日は外が温かくそのままでも十分心地よかった。
今日の朝は何故か凄く寝起きが良かった。
心の中に空洞が出来て、その中には何もないはずなのに何故か一杯になっていた。きっと中は諦めとか、納得とかそんな言葉が一杯になっているんだろう。
長靴の足に小さな水飛沫が飛んで、つま先で蹴ってみせる。コンクリートの上の水溜まりは泥に塗れていなくて、まだ澄んだ色をしている。きっと空が晴れてきたら綺麗だろう。
お気に入りの長靴はピンクの花柄で、今の心と相反してやけに明るく楽しげだ。
早く晴れればいい、この分厚い雲が切れて合間から初夏の太陽が照って、水溜まりを照らす姿を早く見たい。そう思った。
唯の手には会社から少し離れた場所にある和菓子店の紙袋、今日午後から来る庶務課のお客様の好物らしい。課長のポケットマネーで買いに行くように唯が頼まれた。
販売開始の午前中しかない、というだけあって店は開店すぐから盛況だった。
必要分だけを確保し購入し終わった唯は、ゆっくり街中を歩く。課長にはそのまま昼休みに入っていいと言われていた。
食欲は起きない、まだ何も聞いてはいないはずなのに、ゆっくりと心は諦めようと結論を出した。何度も何度も繰り返したこの行為が、今回でとうとう最後だと思うと妙に感慨深い。
きっと、ずっと一緒にいて、あからさまに好意を向けていた唯に優しい蜂屋はなかなか言い出せなかったんだろう。
今までずっと何度も言ってきた何と無くの好意の言葉は、優しい拒絶と共に返ってきた。
今回もそれは変わらない、ただ少しほんの少しだけ唯の気持ちが前よりも大きくなってしまっただけだ。
無音の「 」その中には何を入れよう?
上手に笑えそうなのがいい、出来るのなら彼の負担にならないように。
ヒール付きの長靴が入った水溜まりに光が差し込んで、唯は顔を上げる、雲が切れて来ていた。
「春日さん?」
呼ばれた声に唯は顔を上げる、雨に濡れたアスファルト。その視線の先に営業課の草川。
その横に、蜂屋がいた。
黙ったままでこちらを見て、その表情は相変わらず全く読めない。本当に、難しい人だ。
「出先ですか? お疲れ様です」
微笑んで頭を下げた唯に、草川は傘も差さずに走り寄ってくる。見上げると雨が止んでいた、唯も傘を閉じる。今だけは雨が降っていて欲しかった、傘で顔が隠れたのに。
少し残った雨でスーツの肩を微かに濡らした草川は、人が良さそうな頬笑みを顔に浮かべて唯の前で足を止める。
「春日さんこそ! お使いかい?」
「はい。課長に頼まれて、ほらあっちの角にある和菓子屋の」
「ああ! 大福と和三盆だね」
「はい、もみくちゃになって買ってきました」
上手く笑えているだろうか? 立ち止ったまま近寄って来ようとはしない蜂屋の方は見ずに、唯は草川と話し続ける。水溜まりに差しこむ雲の切れ間からの日光が、照り返して来て凄く眩しい。
やっぱり、雨が止んで良かったかもしれない。何もかも泣いてしまうのは、五年間の想いが可哀想だ。眩しい陽の光に、唯は目を細める。
「私も、これ好きなんです」
紙袋を持ち上げる。「好きなんです」
「草川さんも、和菓子好きですか?」
中を覗き込む、「あなたも好きですか?」
「あぁ、俺は和三盆が好きなんだけどね」
「私は大福の方が好きですよ」
草川の指が中の可愛らしい色をした和三盆を指差して、唯は笑う。「私は好きです」
「課長と好み一緒じゃないですか! あはは」
笑った唯に草川は「それってオジサンってこと?」と憤慨して見せて、それがまた唯の笑いを誘う。
無音の「 」なんて言おう?
蜂屋の声でその事実を知ってしまうのは、少し勇気が無くて、唯は顔を上げた。
「蜂屋主任も、オジサンですから! 草川さんも立派なオジサンですよ!」
唯のいつも通りを装った声に、蜂屋は少し安堵した表情を浮かべて近寄ってくる。大きな足を包む革靴が水溜まりを無造作に踏んで、水飛沫が飛ぶ。
あーあ、あれじゃスーツの裾はびしょ濡れだ。皺だらけになってしまうだろうそれを、心配しながら唯は片手を上げて見せる。その反動でもう一方に持った傘が少し持ち上がった。
「ども!」
「……おう」
元気はカラ元気でも蜂屋にだけは、ばれなければいい。
携帯電話の番号はひそかに蜂屋 数馬と登録して、絶対に消えない様にSDカードにまで移動させた。
「蜂屋主任は和菓子好きですか?」
「……好きじゃない」
こんな時にも欲しい言葉は言ってくれない。
「じゃあ、何が好きですか? 辛いのとか?」
「……いや」
ああ、もどかしい。たった一言でもいいのに。
「じゃあ、酸っぱいの!」
「……いや」
じゃ、何が好きなんだ! もどかしくて叫びそうな言葉を唯は飲み込む。草川はその二人の会話を微笑んで聞いている、まさか唯の心の中でこんなに凄い葛藤の嵐が吹き荒れているなんて考えもしてないだろう。
「じゃあ、塩辛いの!」
「まあ、酒のつまみになるのは、好きだ」
ああ、やっと聞けた。
もう、いいや。
それだけで、いいや。
空を見上げると、雨は止んで先程まで空を覆っていた分厚い雲はいなくなっていた。街路樹の葉の先から落ちた雨の滴が何滴か水溜まりに落ちて、大きな輪と小さな輪を作る。
少し濡れた紙袋の取っ手を掴んで、唯は大きく深呼吸をする。
「じゃ! 私、まだ頼まれ物あるんで、失礼します!」
「おい」
「頑張ってねー!」
唯を押し留める蜂屋の声と、草川の声が同時に聞こえた。唯はそのまま振り返らずに、少し小走りでその場から逃げ去る。
「好きだ」
「好きだ」
「好きだ」
「好きだ」
「好きだ」
ただリピートされるのはその声、ずっと聞けずにそれでいて切望していたその響き。それの対象がただ塩辛い酒のつまみに向かっていたんだとしても、それはもうそれでいいと思った。
一度立ち止ったら、もう動けなくなりそうで唯はただ早足で歩き続ける。
空が晴れている。
高く、そして遠すぎる。もう手が届かない。