行動
胸元がカシュクールのキャミソールワンピースは深紅で、唯は滅多に着ないタイプのものだ。
もし、色気なんてものが多少でも自分に合ったのならきっとこのワンピースも体に合って着こなすことが出来たのかもしれないけれど、ずっと中学校時代から短大までずっと部活で色気とは無縁の生活だったせいか、二十六歳になっても年相応の色気すら自信がない。
だからこんな派手なワンピースを着ても自信なんてものは無くて、つい背中を丸めてしまう。
綺麗に見えたら、自信が持てたら、そんなものもっと綺麗な似合う人の前では霞んでしまう。
それほどに、今日の桜坂は綺麗だったと唯は思った。
「ありがとう、式は今年の秋なの」
「うわぁー! いいなぁ!」
歓声を上げるのは女性社員、その輪に囲まれているのは桜坂だ。
パーティーが滞りなく全て終り、片付けなどもろもろを終えて時刻はPM10:30。控室となった小ホールで一際高い歓声が上がった。少し離れていた唯は、ヒールの高いパンプスを脱ぎ捨てて椅子に崩れた所で近寄りはしなかったものの、聞こえた声で桜坂の婚約から結婚の話に及んでいることが窺い知れる。
「いつから交際していたんですかぁ?」
「知っても面白くはないわよ?」
交際からの流れをしつこく聞き出そうとする女性社員の質問を朗らかにかわして、桜坂は持ったグラスの中身を唇に付ける。
その薬指には細い指輪、婚約指輪だ。仕事中は外しているらしいそれはとても真新しくて、桜坂は時折その指輪に唇を付ける。儀式のようだ、と思った。
横で忙しなく話しかけてくる村野をいい加減な相槌で流し、唯は桜坂の肩向こうで壁に背を預けて男性社員と会話している蜂屋を窺い見る。全く表情に変化は見られない、だが逆にそれが気になった。
時折、こちらを見ている気がする。
でも蜂屋と唯を繋ぐ線には丁度真ん中に桜坂がいて、きっと蜂屋が見ているのは桜坂なんだと思う。誰かの物になった、昔の女。その響きは客観的に見れば艶っぽく聞こえるだろうけれど、実際はもっと複雑で難しいものだ。
何せ五年来の片想いが二重になっている事態で、複雑すぎる。
「春日ー? 今日帰り飲んで行かない?」
行きたい、言い返そうとして押し黙った。先ほどの休憩の時、木坂に帰りは送るから待ってろと言われたのを思い出したからだ。簡単に頷いていいものだったんだろうか、頷いてしまってから唯は自問自答を繰り返している。
「何? 予定あり?」
何か聞きたげな村野は、少し前まで木坂の事が気になると公言していた一人だ。唯や片岡と仲良くなってからは聞いていないが、上手く説明が出来なくて唯は曖昧に笑って誤魔化した。
また、蜂屋がこちらを見ている気がして唯は顔を上げる。
唯の視線の先で桜坂が幸せそうに微笑んでいる姿が見えて、蜂屋の姿は唯から見えない。本当に厄介な思い込みだ。
小ホールに入ってきた社長が、軽い挨拶と今日の手伝いの感謝を述べる。その後入れ替わりにやってきた総務課の課長が解散を告げた。
ざわめく小ホールの中、村野は違う女性社員と他の部署の男性社員との飲み会に行く事にしたらしく軽く挨拶をして去って行った。唯は手元にあったバッグを掴み、靴ずれで痛む足を無理やりパンプスに入れる。
赤く皮のずれた踵はもう悲鳴を上げていて、唯は木坂が来るまで大人しくしてようと椅子に座ったまま足を前に出して軽く揺らす。確か木坂は終了後も車の誘導があって、担当する社員はまだ戻っていていないようだった。
パンプスは唯のつま先で上下に揺れて、妙な動きについ夢中になる。靴が脱げない様に、どこまで大きく揺らせるか? ただそれだけの為に周囲へ気を配るのを忘れていた。
「春日」
呼ばれた声に顔を上げる。一瞬、唯の表情が大きく歪んだ。
椅子に座ったまま見上げるには大きすぎる身長は、丁度頭の上にシャンデリアが重なるせいか暗く陰に見える。見上げた首が痛い。
「足、痛いのか」
「大丈夫です」
珍しく心配そうな蜂屋の声にぶっきらぼうな声で短く拒絶して、唯は椅子の下に足を仕舞い込む。バッグで胸元を隠して、そっぽを向いた唯は木坂の姿を小ホールに探す。
まだ、いない。
「見せてみろ」
「嫌です、気のせいじゃないですか」
ああ、なんて可愛くない言葉。言った端から後悔する弱気の心を叱咤して、ついでに激励もする。頑張れ、頑張れ、私。
優しくされて舞い上がって、調子に乗って引きずり降ろされるのはもうたくさん。
期待するだけで返ってこない想いは辛いって、誰よりも蜂屋が知っているはずだ。互いに互いの想いの強さを一番理解できるはず、五年の片想いはそれほどに長く辛い。
木坂? まだ、いない。
ちらほらとしか残っていない社員は自分の帰宅準備とこれからの予定作りに夢中で、足が痛くて椅子に腰かける唯とその前に立つ蜂屋を気にしている人間は誰一人としていない。
「春日」
「今日は木坂に送って貰うんで、大丈夫です」
唯が言い返すと、蜂屋の呼吸が一瞬止まった。顔を見上げたせいで、蜂屋が手を伸ばそうとしていた事が分かった。視線が絡んだ瞬間、その手はあっさりと引かれる。
その手は私に触れようとしていたの? 勿論その言葉は無音の「 」
いつもとは違う予感を感じ取る前に、待っていた声が聞こえた。
「春日、帰るよ」
絡んだままの視線の間を木坂の声が切り裂いて、唯は見上げていた視線を横にそのまま流す。木坂がいつも通りの表情でこちらを見ていて、脱がれたパンプスと足首を見て片手を出した。
「……やっぱり、靴ずれしてたか」
「木坂」
「蜂屋主任。春日は俺が今日送って行きますんで」
「……分かった」
木坂の蜂屋に話し掛ける声は、少し牽制が入っていた。返す蜂屋の声は少し反応が愚鈍なものの、相変わらず何を考えているか全く読めない。
二人に向かい合う唯は、痺れる痛みの踵を帰るために無理やりパンプスに入れて痛みに叫びそうな声を奥歯で噛み殺した。
無理に立ち上がったせいで、唯の体がふらつき倒れる前に右腕が強く掴み上げられた。大きく少し冷たい手の平は蜂屋だ、唯の顔が大きく歪んで横で大きく木坂がため息をついた。
「春日、ちょっとごめんね」
「う、うん?」
そう言い捨てたと同時に唯の体が大きく揺らいで、木坂に抱き上げられる。お姫様抱っことかそういう高尚なものではなく、いわゆる子供を抱き上げる立て抱きと呼ばれる部類だ。
木坂の首にしがみ付く形になった唯は、蜂屋と向かい合う木坂と向かい合わせになって蜂屋に背を向けている。
「きききき、木坂! 大丈夫だって!」
「じゃ、蜂屋主任。お疲れ様です、月曜日に会社で」
「……おう」
「ええええええ、ちょっとこのまま帰るの? おかしいって!」
唯が蜂屋に挨拶する前に、木坂は足早に小ホールを後にする。勿論、そのまま帰るってそんな馬鹿な事を木坂がする筈もなくフロント前のソファーで唯は下ろされ、木坂はフロントにそのまま向かっていった。
フロントで唯の靴ずれの説明をして、部屋に据え置きされている布製のルームシューズを貰って来た木坂はソファーに腰掛ける唯の足もとに膝をつく。
「少し恰好は悪いけど、パンプスを無理に履くよりはましだと思うよ」
形が少しバレーシューズに似ているルームシューズは、気にしてみない限りルームシューズだとは気付かないほどにデザインもお洒落だ。
色も黒でベルベット素材、甲に深紅の刺繍。足首はゴム製になっていて長く歩くのでは無ければ支障は無い。
「ありがとう」
素直に唯の口から感謝の言葉が零れ落ちる。立ち上がってみるとまだ少し引きつれた感じはしたものの、かなり歩きやすい。片手にバッグ、もう片手にパンプスを持って軽くジャンプ。よし、行けそうだ。
「木坂、もう帰ろう!」
木坂が無言でソファーの脇から立ち上がって、唯より先に玄関から出た。唯は少し慌てて、その後を追う。早く、この場所を離れたかった。
初夏の夜風はまだ冷たく、唯は両手で肩を包み夜風の吹き付ける一瞬身を固くした。ホテルから話しながら結構歩いて寒さに耐えられず乗ったタクシーをアパート脇の路地に入る寸前で降りて、心持ち一歩木坂の後ろ側を唯は歩く。
タクシーの中で社員の馬鹿話だったり、噂話だったりで盛り上がった空気は今は無く、ただ木坂は沈黙を守って唯の一歩前をいく、勿論手も繋いではいない。
大きなため息のあと、木坂が足を止めて振り返った。その表情は少し離れた場所からの街灯の明かりだけでは、よく判別がつかない。
真顔であることだけは分かっていた。
「春日」
「んー? 何?」
緊張感に耐えられずに、唯は敢えてふざけた声を返して立ち止った木坂の横を通り過ぎた。手の中でパカパカと、パンプスがおどけた音を立てる。
「さっきの、もう止めるって本気?」
歩いていた足を唯は止めた。唯のアパートまで距離にして百メートル、もう屋根は見えてきている。木坂の顔を今見てはいけないと、唯の中で警告音が鳴る。
やっぱり「止めようかな」なんて寄りにも寄って木坂にだけは言うべきでは無かった、自分の迂闊さに眉を顰める。足音が聞こえて木坂が唯の後ろに立った気配がする、逃げるべきだと警告音が最高潮に鳴り響いて唯は震える足を一歩前に踏み出す。
「春日」
そのまま、木坂に後ろから抱きしめられた。
「ききききき、木坂。ぎ、ギブ! 離して!」
何がギブなのか、もう動揺した唯の声は完全に上擦って跳ね上がっている。両手を振り回せば、持ったパンプスが正確な弧を描いて数メートル前に飛んで行った。唯の耳に息がかかる、物凄く熱くて唯の意識はより混濁する。
「ききききき、木坂! 本当に離さないと怒るよ!」
「春日。……忘れさせてあげようか?」
一気に赤面した顔は、唯が勝手に解釈したその言葉「忘れさせる」為の何かを想像したせいだ。小さく木坂の腕の中で首を振った唯は、木坂の腕が逃がさない様にするためか力が入っているのに気付く。
やっぱり、あの時言うべきではなかった。
どんなに辛くても、私は一人で耐えるべきだった。
木坂に頼るなんて、最悪だ。
本当に利用しているとしか、思えない。
数々の後悔が頭を過って、唯は繰り返し頭を振る。
「俺が嫌なら、最初は目を瞑っててもいいよ?」
大きく首を振る。
嫌だとか、そういう訳じゃない。
蜂屋主任が好きだ。五年前からずっと、無愛想で与えられる優しさはとても難しく、一見怒っているようにも見えるのに時折頭に乗る大きな手の平や、口端だけで笑うその姿。
見ている間はとても愛おしく、そして切なく苦しい。
こっちを見て欲しいと願う半面、一度手に入れてしまうとのめり込んでしまうような不安定な気持ちもある。
五年前からずっと時々桜坂に向ける決して唯には向けない感情を、見せて欲しいと切望してきた。それは何度も可愛い後輩の線引きをされても変わらずに、またずっと変わらないと思っていた。
じゃあ、この木坂の腕の中にいる時の気持ちはどう表現したらいいんだろう?
明らかにこの腕の中で安心している自分、心臓の動悸が激しくなっている自分。
そのまま流されてもいい、と思っている最低な自分。
「木坂、本当にごめんね。離して」
「……そう?」
「うん、送ってくれてありがとう。気を付けて帰って」
簡単に緩んだ腕から抜け出して、唯は後ろを見ないままアパートに駆け込んだ。置いてきたパンプスは両足でもシンデレラのガラスの靴。
震える指で部屋の鍵を差し込んで、ドアを開けると、時計の針は両方頂点を向いていた。シンデレラがお姫様でいる時間は終り、後は王子様の到着を待つだけだったら良かったのに。
自分は、最悪だ。こんな気持ち、抹殺してやりたい。