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扇動

「いやいやいやいや! やっぱり無理! 絶対に無理だって!」

「今更、何言ってるの! 自分で買ったんでしょ? ほら、しっかり歩く!」

「帰るー!」

 騒がしい声は唯と村野だ。場所は芯谷商事の記念事業のパーティーがあるホテル前、リムジンやタクシーが並ぶ玄関ロビーに入る寸前でもうかれこれこうやって十五分は言い合いを続けている。

 リムジンから降りてくる年配の男性が小煩い二人を一瞥して、唯は叫んだ口を両手で塞いだ。

 この場所にやってくるのは芯谷商事の大口取引先ばかりだ、会社の恥になるわけにはいかない。そんな唯を村野は睨みつけて、もう一度唯の腕を掴む手に力を入れた。

 唯が申し訳程度にワンピースを隠す為着ているのは薄いオーガンジーのボレロだ。中には先日購入したキャミソールのワンピース。買ったままショップバッグに入れておいたワンピースは唯の想像以上に胸の開きが大きく、それが着慣れない唯には恥ずかしくて仕方がない。

「ボレロあるから、いいじゃない」

「ボレロも前が閉まらないー!」

 決して太った訳ではなくボレロはそういう仕様なのだが、鎖骨と胸の谷間を強調するワンピースのカッティングを両手で押さえて唯は歩く。せめて深紅のワンピースでなければここまでなけなしの色気を強調することは無かったのに、知り合いに会ったらもう脱兎の如く逃げることしか出来ない。

 踏み込んだ唯と村野を、赤い絨毯とオペラ座の怪人をも想わせる巨大なシャンデリアの玄関ロビーが迎えた。カウンターにいる黒服のホテルマンはその若い訪問者に笑顔のサービスをしてきて、唯は場違いな自分に完全に御上りさんとなっている。つまりは田舎者っぽくなって、右往左往している。

「会場は二階グランドホールだけど、確か先に秘書課の方に挨拶行かなくちゃ行けなかったよね」

 口を大きく開けたままシャンデリアを見上げていた唯は手に持った小さなバッグを胸元に引き上げて、意外にも冷静な村野の方を振り返った。村野の今日の服装は同じくワンピースではあるものの、アメリカンスリーブで胸元は詰まっている。丈は際どいが、どうやら中にフリルのついたショートパンツを履いているらしく、それがまたチラチラと見えて可愛らしい。

 唯は肩上の髪をアップにして、薄いゴールドの髪留めで止めた。落ちて来ない様に部屋で鏡を見ながら奮闘すること一時間、出来あがった時にはもうすっかり疲れてしまって化粧は手抜きのナチュラルメイクだ。

 正面の階段を上って行けば、久しぶりに履いた高めのヒールが絨毯に飲み込まれていく。ちらりと下を見て、見慣れた面々がいないことを唯は確認してから安心して階段を上った。集中してなければ転げ落ちそうだった。

 大きな窓に面したグランドホールはまだ開始一時間前だというのに人の影がちらほらあり、唯と村野はホールとは間逆の控室へと向かう。ここで担当する仕事の場所を教えて貰える手はずになっていた。

「設計課の村野と、庶務課の春日来ましたー!」

 クリーム色の装飾過剰なドアを開けて入って行く村野を追えば、ロングのドレスに身を包んだ桜坂が丁度数人の女性社員に招待者リストを手渡している所だった。

 いつにも増して華やかな桜坂に圧倒されて唯が無言を保っていると、村野は全く気にもしない様子で桜坂に歩み寄る。

「うわ、華やかですね!」

「そう? 社長の脇に控えるのに地味って訳にもいかないでしょう? 今日は社長の奥さまが欠席されるから、その分頑張らないとね」

「私も、頑張りますよ。仕事の分担を教えて下さい」

「あ、そうね。ちょっと待って」

 控室は小ホールのようで、赤い絨毯も少し玄関ロビーよりは小ぶりなシャンデリアも全てインテリアは統一されていた。置かれた猫足にも似たテーブルの上に一応差しいれのつもりなのかお茶のペットボトルが十数本並び、それがまた違和感を感じさせる。辺りを見回しながら胸元に上げたバッグを無意識に唯は下ろすと、肩越しに声が聞こえた。

「春日、今日随分気合入ってるんじゃない?」

「来た!」

 聞き慣れた声に下ろしたバッグを胸元まで引き上げて、振り返ると薄ら笑いを浮かべた木坂が立っている。叫んだ唯の声に、木坂が不本意そうに鼻で笑った。

「来たって、なんだ。期待した所申し訳ないけれど、俺だよ」

 蜂屋じゃなくて悪いね、そういう風にも木坂の言葉の裏に読めた。そういう意味では無くて木坂にすら気合たっぷりに客観的には見られてしまう今日のこの服装は出来るなら見て欲しく無かったのだが、やっぱり言えない。

 ボレロの伸縮率に期待して胸元まで布を引っ張ってみれば、引き裂けそうな危ない音が手もとの布地から聞こえる。この部分にカーテンを付けて、見えない様にしたい。

「……ふぅん」

「木坂は! 木坂は何の担当!」

 意味ありげな木坂の視線とコメントを遮って、唯は大声で体を乗り出す。突然の唯の反応にも慣れた様子で笑いながらスルーして、木坂が親指で奥にいる数人の男性社員を指した。

「車の先導、今交替したばっかり」

「あああああ! そう!」

 動揺した相槌も情けない。向こうで村野が呼んでいる声が聞こえて、この場から逃げるのにこれ幸いと木坂に片手を上げた唯に木坂が顔を寄せた。一瞬の真顔とらしくない低い声。唯の体が強張ったのを見て木坂が肩を叩く。

「春日、蜂屋主任。来てるよ、その格好見せてやれば」

 無理だ。だって今日はもっと深紅が似合う桜坂が唯なんかよりももっと素敵に着こなしていて、そんな人と並んだら月とスッポンというか。女性と子供にしか見えない。

 複雑な表情で俯く唯の頭をセットが乱れない様に軽く二度程叩いて、木坂はため息をついた。

「どうしてまた、そんな顔するかな。……春日、村野さん呼んでるよ」

「あ、うん」

 背を向けた後ろで、木坂が大きめにまたため息をついた。幸せが逃げるよ、とは流石に言えない。


 もう初夏とはいえ、パーティーが夜だけあってクロークは大盛況だった。次々と預けられる羽織り物に番号札を付けて、クロークハンガーに掛けていくのが今日の唯の仕事だ。手渡される羽織り物は少し触っただけでも上質だとすぐわかる位の物や、本当にただ引っ掛けてきただけという位布地も薄く安っぽいものもあって、玉石混合だ。村野に手渡された女性物の羽織り物が余りに素敵で、ついタグを見ると高級ブランドではかなり老舗の物だった。確かジャケットだけで三十万以上、触れた事を感謝するべきかもしれない。

「春日、クローク落ち着いたから食事行って来て。帰りにまた忙しくなるから」

「あ、はいよ!」

 少し人影の落ち着いたグランドホール手前のクロークから抜け出し、控室である小ホールに向かう途中で煙草を吸う見慣れた姿を見つける。なんてタイミングの悪い、唯は気にしていた胸元を隠すのすら忘れて肩を落としながらため息をついた。壁側の巨大な窓にはクリーム色の地にうっすらと金糸の縫い込んである長いカーテンが引かれ、窓から外の夜景は見えない。それなのに影は窓側を向いて煙草を吸っていた、何か考え事をしているのが丸分かりだ。

 立ち止る唯に気付いて振り返った蜂屋が一瞬、止まったように感じた。

「……おう」

「ども」

 いつもより少し反応の鈍い蜂屋に一応挨拶をして、唯は足早に横を通り過ぎる。扉の開閉する凹みに手を入れた時、後ろで長く煙を吐くのが聞こえた。次いで、名前を呼ばれる。

「春日」

「……何ですか」

「その格好、どうした」

 どうした、とは。真意の読みづらい蜂屋の台詞に唯は背を向けたまま眉を寄せて、扉を開けるか逡巡する。俯いた視界に自分の胸の谷間が見えて、唯は扉の凹みに添えた手で今更ながら胸元を隠した。

 どうした、とは。やっぱり申し訳程度の胸のことだったりするのだろうか。

 ぎくしゃくと唯は蜂屋を振り返る。一瞬、合った視線はあっさりと逸らされた。

「……どうした、とは?」

 聞き方が動揺で妙な声になる。待った返事もなかなか帰ってこなかった、長い煙。

「いや」

 また長い煙。時間がある時にゆっくり話す時間を取って貰うのは嬉しいのだけれど、正直今は勤務中でしかも少ない休憩時間の間に食事を終わらせなくてはいけないから、時間は押し迫っている。胸元を隠したままで唯は大袈裟に一息つくと、蜂屋に歩み寄った。

 逸らされたままの視線が悔しくも悲しい。

「蜂屋主任! 私、今時間ないんです。言いたいことあるならはっきり言って貰えますか」

 思っていた以上に出てきた声は険のある声で、唯自身が一番驚いた。正直、こんな言い方を他部署とはいえ上司である蜂屋にしたことは、唯にはない。

 ただ生殺しみたいに何も言わないで逃げられたことと、今唯の服装に文句がありそうなのに語尾を濁されたのが面白くなかった。

 どうせ、似合わないのは分かってる。

 近寄ってきた唯を見た蜂屋の視線はまた一瞬絡んだように見えた、とすぐに逸らされて蜂屋は何も言っていないが如くにまた煙草を吸う。そして、長い沈黙の果てに「もういい」と短く言った。

 歪んだ自分の顔はきっと、泣きそうに見えたに違いない。

 感情が隠せなくて、そのまま絶句して唯は眉を寄せた。何もかもを堪えたせいで強く噛み締めた奥歯が割れるんではないかという位軋んだ音を立てて、唯は一歩後ずさる。

「春日」

 そんな唯を蜂屋が呼ぶ。もう、呼ばないで欲しい。もう、傷つくのは嫌だ。熱い瞼で蜂屋を見ると視線が絡んだ、ぶつかったというよりは絡んだ。でもそれもきっと自分の都合のいい解釈で、きっとまた逸らされて泣くしかなくなる。

 そう思ったら怖くて、唯はすぐ蜂屋に背を向けて小ロビーの中に逃げ入った。少し、身じろいだ蜂屋の姿が視界に入った。


「ご苦労様ー! ん? 春日、なした?」

 中にいたのはまたタイミングの悪すぎる木坂で、持ってたペットボトルを手渡してきた。貰ったペットボトルを強く瞼に押しつけると、唯は「何でもない」と短く答える。

 なんでもない、そうなんでもない。もう五年も繰り返して来たじゃない。今更あんなこと言われてももう傷つかないよ。そう思いこもうとする声は、熱い瞼に遮られて声が震える。

 手に持った皿に乱暴にオードブルを手当たり次第入れまくって、唯は口に突っ込む。美味しいはずなのに妙に塩辛い、咽喉が焼き付くような気がする。

 他の休憩に上がっている社員に聞こえない様に、木坂が唯の横に座ると頭を撫でた。

「はいはい、春日はいい子だね」

「馬鹿、じゃないの?」

「落ち込むな、春日が悪いんじゃないよ」

 本当にそうなのかな、本当はもっと早くに言ってしまえばもっとあっさり終わったんじゃないかな。口にサラダを思いっきり放り込む、蛙が潰れたような変な声が唯の喉奥から出てきて吃驚した。

「木坂」

「んー? 何」

「もう、止めようかな」

「そう」

 一言答えたまま、木坂は黙り込む。唯は残りのパスタを皿から口に掻き込むと、皿を持って立ち上がった。その後ろで木坂が噴き出す。

「春日、ワンピース破れるよ。折角、可愛いのに」

 突然、真顔になって木坂が唯を見上げる。視線が物凄く熱く感じた。

「……今日、送ってく。帰り、待ってて」

 もう、どうしたらいいのか。分からない。


 唯は小さく頷いた。

 

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