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激動

 営業課の仕事は主に出先とデスクワーク。

 一方庶務課の仕事は、部署から受ける多種多様な庶務を引き受けたり事務用品や他日用品のストックを帳簿につけて管理すること。

 芯谷商事の庶務課はその名前の割には孤立した部署で、下手すると7階のフロアどころか庶務課から昼食時以外は出て来ないなんて事もざらにある。

 そのせいか、庶務課の出会いなんていうのも余程庶務課に頻繁に依頼に来てくれるか、昼食時に見初められるくらいしかなくて、片岡の入る前に結婚退職で辞めた唯の先輩のお相手は営業課なんてことはない違う企業の社員だ。因みに今の庶務課には五十一歳の課長と、四十二歳の主任しかいない。主任は独身だが、唯と片岡には興味が無いらしい。

 それほどに庶務課と、営業課含む他の課との係わりは本来無いにも同然だった。

 もし出先から戻る営業課と知り合いたいのなら、休憩室で張るかそれとも営業課と関係のある社員を巻き込むか。唯は芯谷商事の中で他の女性社員に上手いツテとしての地位を確立している、そうじゃなかったらこれだけ営業課の面々と仲良くしているのは羨望の的と嫉妬の矢面だ。

 ただ、今その確固たる地位も揺らぎつつある。

 蜂屋に避けられているのかもしれないと、唯は感じ取っていた。それは三日続けて仕事を理由にして、講習会を断られて確信に近づいていった。やっぱりあの日、少し蜂屋の様子がおかしかったかもしれない。思い返す姿は不安だらけで気が逸る。

 でも思っても本人に聞くことは出来ず、晴れない気持ちのまま唯は毎日の仕事を正確に的確に終わらせていく。仕事に支障をきたすわけにはいかない。それが社会人のルールだ。

 ゴールデンウィークも終わった初夏の日、噂は嵐を持ってやってくる。

 それは先日桜坂に頼まれた記念事業パーティーが引き金だった。


「え……、私がですか?」

「そう、ダメかしら?」

 庶務課、唯の机の前で整った少しきつめの顔に笑みを浮かべて、桜坂が唯の前に座る。

 安っぽいパイプ椅子に腰かける濃紺のスカートスーツの桜坂は、マニッシュなデザインのスーツなのに色気たっぷりで着こなし、その肉付きのいい足を組んでいる。組み合わさった足は女性である唯でも目に毒で、敢えて唯は目を背けた。全く真似出来ない位、桜坂と唯はかけ離れている。

「他の人に、頼めないんですか」

「経理と設計には頼んであるんだけれど、庶務からも一人手伝って貰いたいの」

 レセプションは芯谷商事の記念事業パーティーで、秘書課を総動員しても人数が足りないらしい。仕事は受付から接待、車の誘導等々男性社員も女性社員も終業時間少し前くらいからの手伝いになる、と桜坂が言った。

 庶務課からは、そういう作業全般を苦手としている片岡を除外して唯に白羽の矢が立った。つまりはていのいい残業だ、食事が付いている分まだいい。

「その日に予定があるのなら無理強いは出来ないけれど、一応仕事だから考慮してね」

 無理強いは出来ないと言ったその口で考慮してね、とは、桜坂の同期にはそういえば鈴木がいたと唯は思った。この食えない物言いが実によく似ている。

 つまりは唯が断るのは勤務している以上許さないってことだ、はっきり言って欲しい。

「……制服で参加ですか?」

 グランドホールでそれは少し恥ずかしい。不安そうな唯の質問を聞いて、桜坂は心底おかしそうにからからと声を上げて笑った。何か、おかしなことを唯は言ってしまったのか、心配になってくるほどに桜坂の笑い声は少しの間続き笑いを過大に含んだ声で逆に聞き返してくる。

「まさか! あのホテルに制服で来る気?」

 赤い絨毯と大きなシャンデリア、黒服のホテルマンが闊歩する高級ホテル。

 常に専務や常務と移動する桜坂と違い、正直唯は足を踏み入れたことはなく会社帰りに外から玄関ロビーを覗き込んだ事が一度あるだけだ。

 考えてみると確かに、このネズミ制服ではかなり目立つかもしれない。唯は笑われた恥ずかしさに俯くと、桜坂が無邪気な笑い声をやっと止めた。真珠色の爪を招待状の一項目に乗せる。

「一応ね、このレセプションにはコンセプトがあって」

 唯の視線はその指を辿って上がり、桜坂に向かった。

 艶やかな桜坂の黒髪は後ろに一つに纏められていて、唯に近寄る度に微かな香水の匂いが唯の鼻を擽る。長い睫毛と綺麗に化粧された肌は白く、唇はぼってりとした赤。

 招待状の上に乗る細く長い指には傷も汚れも何も無く、爪はラウンド型で真珠色に輝いている。

 声は女性にしては少し低めで、丁寧にゆっくり発音してくるのが聞きやすい。話し方は全く違うタイプだけれど片岡に似ていると思う。受け止めて、包む話し方。

「聞いてる? 春日さん」

「は、はい。聞いてます!」

 ごめんなさい、聞いてませんでした。

 首を傾げる桜坂の姿、優しい声が唯に染み渡ってくる。

「だから、コンセプトはこの深紅で。出来れば服か、無理ならコサージュでもいいから深紅の物を身につけて来て欲しいの」

 深紅、そんなものないかもしれない。そういえばこの前買った下着のセットがそんな色だった気もするけれど、流石にそれは無い。絶対に無い。唯は首を振って、浮かんだ思い付きを削除する。

「そんなもの、ありません」

「他の課の子たちは買いに行くって、言っていたけれど」

 招待状には数多くの取引先の名前が連なっている。総勢三百人を超えるパーティーには、社長や専務、常務に部長やもしかしたら課長クラスも来るのかもしれない。参加するように指示された女性社員たちの狂喜乱舞が目に見えるようだ。

 そんな気合の入った中にコサージュだけ深紅で入って行くのは、ちょっと避けたい。逆にかなり目立つと思う。

「……大体の例としては、何かありませんか?」

「そうねぇ、ワンピースか何か? キャミソールタイプで上に何か羽織るとか、一部でも構わないから持っているスーツの中に深紅のインナーでもいいわよ」

「はぁ……」

 目の前にいる女性は確か、自分が五年来片想いを続けている男の想い人だ。

 ただ知り合ってみると、彼女は唯の憎しみを向けるには余りに普通すぎて、逆にそれが切ない。蜂屋の想い人、ということを引いてしまえば桜坂は話しやすく仕事も有能だし、何しろ気さくだった。

「大きな深紅のリボンでも頭に付けるとか」

「いや、それは桜坂さんにお任せします」

「……無理ね、私はその日忙しいからそんなバカみたいなこと出来ないの」

「……私ならいいんですか」

 目の前で笑う桜坂はその多少濃い化粧と派手な容姿から想像も出来ない程、無邪気で可愛らしい。それがまた、苦しい。敵うわけなんて無いんだ、そう思ってしまう。

 桜坂は一枚招待状を唯の机に置き「庶務課の課長には了承を貰っているから」と付け加えた。唯はその招待状を持って、ただ見つめることしか出来なかった。

 パーティーまで時間が無い。


「なんか、桜坂さんの婚約者がいるって話よ?」

 噂は突然に唯の耳へ飛び込んできた。パーティーに手伝いとして参加する女性社員の数名を誘って、パーティーのコンセプトである漠然とした深紅の物を探して買い物に来た唯は、突然の話に声を失った。

 噂の主は設計課の村野むらの 沙織さおり。前に一度飲んだ事があり、最近は片岡と共に仲良く食事に行ったりする仲だ。村野は手に持ったサテン生地の際どいワンピースをまたハンガーに掛け直し、眉を寄せて停止したままの唯を訝しげに覗き込む。

「春日? 大丈夫? 停止してる」

「……あ、うん」

 それしか言えなかった。唯はリボンを編んで作られたボレロを畳んで棚に戻して、その横の小さなバッグを手に取る。色は深い緑色で、選ぶ気も無くただ手に取っただけだ。

 落ち付け、唯は自分にそれだけを言い聞かせる。

「婚約者って?」

「あー……、うん」

 震える声でそれだけは聞く。興味があり過ぎる風にも全く無い風にも上手く聞くことが出来ない、本当は村野の肩を両手で掴んで振り回したい位だ。

 そんな焦る唯の心中には全く気付かずに、村野は語尾を濁す。本当に、早くしないと殴りそうだったのを何とか堪えた。

「……これって言ってもいいのかな? 取引先の会社で結構いい年齢の相手だから、勿論地位も高くてやっかみが凄いって」

「ふーん……」

 結婚までしてしまった相手をも長く想い続けるってことあるんだろうか? 絶対ないと言い切れないのが蜂屋という男だ、しかもまだ婚約なのであれば揺れることもありうる。この際思い切って元鞘に戻ってくれた方がいいのか。

 きっと一番いいのは、唯が想いを伝えて蜂屋に完全にこの長い片想いを叩き切って貰うことだ。分かっているのに、胸が疼く。

 男友達以外に何とも思っていなかった木坂の存在に確実に揺れている自分が、今は一番怖い。どれだけ尻軽なのかと、呆れながらも逃げ場を作ろうとする自分が唯は憎たらしくて仕方がない。

 頭に触れる大きくて少し冷たい手の平に、五年間片想いし続けた。ただ期待するだけで、気持ちを伝えずに傍にいることを選んだ。望んでいたはずの蜂屋の傍は、自ら選んだとはいえ苦しく切ない。でもそこで簡単に逃げて、木坂を選ぶことは自分勝手過ぎないのだろうか。

 もし前に進むのであれば、無音の「  」に言葉を入れるしか方法はない。

 唯は村野の戻したキャミソールのワンピースを手に取る。

 それは少し派手目で、いつもの唯のイメージとは間逆の大人びたものだったけれど思い切って気分転換をするべきなのかもしれない。

「春日、それにするの? 珍しい、いつもそういう女っぽいのは絶対に着ないのに」

「……うん」

 敢えてそれに挑む。そういうことも恋には必要なのかもしれない。

 唯は手に持ったワンピースを持って、レジへと足早に向かった。


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